鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―34―近年公開された松斎の二点の旅日記から、江戸・上方の著名な文人や道中の地方文人との交流、書籍出版に奔走する姿、出費の詳細が明らかとなった。これにより新たに化政期における地方文人山田松斎の人的交流、文化活動の様子を具体的に検証することが可能になった(注2)。2.松斎における文人交友網の構築〔表1〕文化13年(1816)47歳で隠居後、本格的な学究生活に入った松斎が、いかにして短期間に広域かつ重層的な文人交友網を構築しえたのか。それは文化6年(1809)の亀田鵬斎の信濃遊歴が直接的な動機となっているものの、寛政年間から活動していた柏木如亭の漢詩結社が江戸と北信濃、あるいは周辺部に形成した文人の交友網をそのまま活用し、さらに鵬斎の影響力を得て拡大、発展させたためといえる。これは小林一茶が郷里への定住を決め、北信濃での活動を活発化しはじめた時期とも重なった。3.漢詩結社「晩晴吟社」の活動、柏木如亭(1763〜1819)の文人交流信州中野を拠点に結成された晩晴吟社の文芸活動は、江戸と地方との文人のかかわりをみる格好の対象である。ここでは江戸で名をなした文人が遊歴に新しい活路を求め、地方で弟子を育て、江戸の仲間を招き、弟子たちの成長ぶりを詩集や教授法の出版により江戸の文芸誌の評価を得て全国に発信しようとする試みが展開された。晩晴吟社は、江戸で新しい詩の流れをおこした市河寛斎門下の柏木如亭を指導者として、寛政7年(1795)信州中野に結成された漢詩結社である。社友として木敷百年、畔上聖誕、山岸蘭腸などがいる。彼らは庄屋や医師として在地で寺子屋・手習師匠をする地方文人であった。如亭を訪ねた大窪詩仏が、信州中野に滞在した折に吟社の詩人たちの選評をし、それを社友の百年と聖誕が協力して出版したものが同12年(1800)の『晩晴吟社詩』である。『晩晴吟社詩』は、江戸の文人たちに如亭の信濃での成果として驚きをもって迎えられた。如亭の盟友の一人菊池五山が文化4年(1807)に刊行した『五山堂詩話』一巻は、友としての感激をこめて晩晴吟社の名を全国に伝えている。『五山堂詩話』発刊と相前後し、吟社の双璧と称された木敷百年、畔上聖誕は江戸へ赴く。そして如亭も新たな遊歴の地、京へと旅立っていった。晩晴吟社活動の間、如亭は北信濃にあっては社友宅を拠点に市川米庵、俳諧師杜入、勾田台嶺、釧雲泉らと会合し、北国街道では須坂の駒澤清泉、上田の金子周平、土屋廉夫らの信濃文人を、江戸への帰路には諏訪の天龍道人を訪ねた。そして江戸に帰京すると雲室上人主催の詩画会小不朽社に参加している(注3)。如亭の漂泊自体が、

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