鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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C明治期国学者による画史画人伝の編纂―421―――小杉榲邨・黒川真頼を中心に――研 究 者:茨城県近代美術館 学芸員  吉 田 衣 里はじめに日本における「日本美術史」のはじめは、岡倉天心(1862−1913)による東京美術学校での「日本美術史」講義(明治23年)、あるいは初の公刊された美術史として『稿本日本帝国美術略史』(明治34年)が知られている。このように明治20年代から30年代にかけて、美術史という近代的な学問が歩みをはじめた一方で、江戸以来の学問を受け継いだ美術に関する論考や書物も著されていた。それは幕末に生を受け、維新期には既に壮年に達していた国学者、黒川真頼(1829−1906)あるいは小杉榲邨(1834−1910)などに顕著である。彼等はもともと文献考証に秀でており、明治に入るや新たに登場した「美術」の領域においても論の展開を試みたのである。ただし、ここで「美術史」としないのは、時代の精神や文化の特徴を捉え、時代ごとの特質を探る岡倉等の美術史とは、手法および目的が明らかに異なっているからである。よってまずは彼等の業績および美術に関する著述を掘り起こし、その特徴を明らかにすることから始めた。1.小杉榲邨について小杉榲邨については現在、明治期の国学者あるいは古典学者としてその名が知られているものの、まとまった研究は殆ど行われていない(注1)。よって、まずは略歴を簡単に記しておく。小杉榲邨(初名は真瓶)は天保5年(1834)、阿波国蜂須賀家の家老西尾氏の家臣、小杉五郎左衛門明真の長男として生まれた。12歳の時に藩の寺島学問所に入り漢学経史を学び、安政元年(1854)よりは仕えた西尾志麻の江戸詰めに同行、同4年(1857)24歳の時、本居豊頴および小中村清矩が指導にあたっていた赤坂紀伊藩邸の古学館に入門する。その後、尊王論を唱えて藩内を動揺させたとして一年ほど幽閉され自宅謹慎の身となり、慶応3年に赦されて徳島へと戻った。徳島では藩校で教授し、また徳島藩庁より阿波国続風土記編纂を命じられている。転機となったのは、湯之上隆氏が指摘されている通り、明治7年(1874)、新政府に設置された教部省への出仕(社寺掛専務・考証課専務)であり、それによって「活動の場と交流の範囲を拡大」した(注2)。その後、内務省御用掛、修史館掌記、『古

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