―422―「考古」を旨としており、これは江戸時代の古物に対する認識を受け継いだものとい事類苑』編纂専務(文部省)、東京大学文学部附属古典講習科国書準講師、帝国博物館歴史部技手、臨時全国宝物取調局書記兼監査掛、東京美術学校教授(書学・日本歴史・金工史・漆工史)、東京帝国大学文科大学講師、古社寺保存委員、国語伝習所長などを歴任している。2.小杉榲邨の美術論―「美術と歴史との関係」―小杉の美術に関する主な論考は、明治20年代から30年代にかけて発行された雑誌類、『大八洲学会雑誌』『東洋美術』『国華』『考古学会雑誌』などに発表されている。その中でも注目されるのは、明治22年(1889)から26年にかけて32回にわたり『皇典講究所講演』に連載された「美術と歴史との関係」(注3)である。この論考の中で小杉が試みたのは、必ずしもこの表題から想起されるような「美術と歴史」の関係を模索するものではなく、小杉の言にもある如く「美術関係の歴史をいささかしめす」(注4)ものであった。「美術関係の歴史」とは、広大な領域から「美術」にまつわる事項を抽出し、その歴史を述べるといった意識である。小杉の関心はわが国の歴史を明らかにすることにあり、「美術」はその有効な手段と考えられた。小杉の「美術」への関心は、絵巻について述べた次のような言葉に集約することができる。「ことにわが倭画といふものは、歴史のうへには、実に姑くも、闕くべからざる、緊要の効力を具へたるものなり、さるはその当昔の治乱興廃、或は制度風俗に係れる、人物のありさまより、殿舎衣服調度舟車の類にいたるまで、みな其世にありしものをがゆえに、その真をうかがふに足る者なればなり」。「上中下の礼典風俗はもとより、いはゆる歴史のうへにとりて、成文の及ばざる間を網羅し、写し出したるは、実に無量の能力あり」(注5)。このように過去の風俗・器物などについて、「成文」のみではうかがいしれない、歴史の間隙を縫うものとして、小杉は「美術」の中でも特に絵巻を評価している。それは、「花卉の著色、浅淡水墨山水一風景の布置などをして、一時の眼目を歓ばしむるに止るの比ならんや」とし、このような絵巻は中国や西洋にもなく本邦のみで古来より行われているとして「一美事」とするのである(注6)。よって、「史を編纂する者」は、これら絵図を参考とすべきであることを強調している。3.「考古」としての「画」小杉が述べたような歴史の参照として絵巻物をはじめ古画を位置づける価値観は、ママ写し出し
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