―423―える(注7)。たとえば、江戸時代に松平定信(1758−1829)によって編纂された『古画類聚』は、絵巻物など古画より器財など様々な事物を画き写したものであるが、その序文において、「画」というものは「文筆のかけたるをも補ひ、ともに後徴のもの」であると述べた。そして、言葉のみではうかがい知れない当時の宮殿服章器財などのありさまを明らかにするため尊いものであると述べられている。ほかに松平定信は、『集古十種』や『輿車図考』など、同様の観点から考古の図譜を編纂し、絵巻物の模写や復元などを手がけているが、「考古」を尊重する古物研究は定信に限られるものではない。京都の故実家で古物の図録『集古図』を編纂した藤原貞幹(1732−97)などが知られており、彼もまた絵巻物など古画を「考古」に益するものとして捉えていた(注8)。考証学が隆盛した江戸後期という時代において、絵画が「考古」の貴重な資料であるとする認識が高まっており、一つの到達点として、国学者・屋代弘賢(1758−1841)によって編纂された『古今要覧稿』(1700年代末〜1842年編纂)が挙げられる。この書物は、あらゆる事物の起源と沿革の網羅を目指した分類体の百科事典である。参考とすべき史料はもとより、数多くの古画が蒐集・模写され、それらを基に考証・解説が施されている。このような時代において「古画」の資料集成が求められるのは想像に難くない。実際、幕末に編纂された『扶桑名画伝』、そして幕末から明治にかけて編纂された『考古画譜』は、いわゆる画史画人伝であり膨大な資料集成となっているが、その編纂にあたっては「考古」という目的意識に支えられていた。4.画史画人伝の編纂―『扶桑名画伝』および『考古画譜』―信州高井郡須坂藩主・堀直格(1805−1880)による『扶桑名画伝』の内容は、画に関する人物(画家・文人・武士など)約二千人の伝記である。位階勲等の上下、釈家僧侶の序列などにより配列した各人の経歴を概説し、典拠となる文献を引用・列記して、その文献名をも記している。嘉永6年(1853)にほぼ脱稿し、それを当時、預かりとして抱えていた国学者・黒川春村(1799−1866)のもとに原稿を送り校閲補訂を依頼したが刊行には至らずに終わった。この書物の編纂意図は、堀が記した「扶桑名画伝自序」(嘉永7年)に明らかである。「ふるき世のことわざをも、よろづのものゝかたちどもを、おろおろかうがへ知らんとするには、むかしのふみども、くりかへすついでに、ものゝ絵やうをも、とりそへて見むこそ、ひとしほ、たよりも多かるべけれど[以下略]」古き世のさまざまな事柄について知るには、書物の他に絵も見るべきであるという。
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