―424―「伝曰」として筆者、そして形態が述べられている。これに「気魄雄渾、筆致霊妙」安政4年(1859)に序を寄せた黒川春村も同様に、昔の風俗や風習を知るには昔の文とともに「むかし絵」がたよりになるとしている(注9)。しかしながら続けて、その「むかし絵」については、いつの時代のものであるか、「古」の判断のために、画家について知る必要があると述べており、「考古」の一助として画家伝である『扶桑名画伝』の編纂が企図されたことがうかがえるのである。それは『考古画譜』についても同様である。明治15年から34年にかけて、博物館より刊行された『増補考古画譜』は、『扶桑名画伝』にも序をよせた黒川春村の原稿に基づき、春村の養子となった明治期の国学者、黒川真頼(1829−1906)らが増補を行っている。内容は、50音順に絵画作品を列挙し、各作品についての記述を膨大な文献資料より集め、作品に関する情報(員数・図像・書付・現在の所蔵先など)を記している。『考古画譜』において特に注目されるのは、文献考証のみならず、実見に基づく同時代人の考証が「…曰く」として収録され、画家・制作年などの考証が「按ずるに…」として加えられていることである。それら考証文は、黒川春村・古川躬行をはじめ、黒川真頼によるものが最も多く、他に古筆了仲(1820−91)、古筆了悦(1831−94)、柏木政矩(1841−98)、町田久成(1838−97)ら、明治初期の博物館行政を担った人々の言葉が引用されている。内容は常時更新されていた様子が、明治43年(1910)より刊行された訂正増補版(『黒川真頼全集』第1・2巻所収)よりうかがえ、そこには、明治33年より博物館で技手をつとめた片野四郎(1867−1909)による考証が大幅に加えられている。そして興味深いことには、それは明治期の博物館が中心になって行った美術品の調査・収集・修復活動と連動しているのである。一例として片野四郎による「阿弥陀二十五菩薩来迎図」の記述を見るならば、まず所蔵先が記され、云々といった賞賛の言葉が続くが、他と比較してもこの作品の印象が甚大であったことが、その文章から想像される。結果、この作品は「本邦仏画中の最大至宝」に値すると判断された。そして現在では国宝になっているとして、明治30年(1897)に公布された古社寺保存法に基づく評価が一つのお墨付きを与えている。更に、明治41年に帝室博物館にて修補した際、軸木に年記の墨書があることを発見したことも新しく書き添えている。この記述からも明らかなように、作品を実見して調査を行った考証の結果が順次加えられていったのであり、それは版を改めるや訂正・増補がなされたのである。なお、書中に挿入された89点の木版墨刷図版の原画を画いたのは、狩野晏川(1808−92)、長命晏春(1832−89)、板橋貫雄(1810−68)、山名貫義(1836−1902)、前田貫業
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