鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
434/535

(1840−?)、川崎千虎(1835−1902)など、狩野派・土佐派・住吉派といった系譜の末尾に位置づけられる絵師達であった。以上のことからは、博物館を主体とする宝物調―425―査・収集・修復・模写模造といった一連の活動と連動して、作品一点一点の情報が蓄積され、実際に調査を行った者の生の声や記録が反映された様子がうかがえるのである。作品の情報を蓄積していく作業は、美術史構築の基礎研究として欠くことのできない重要な作業である。しかしながら『稿本日本帝国美術略史』のような、近代的な「美術史」編纂を目指した明治という時代において、このような営みはむしろ乗り越えるべき存在であった。5.古物学と美術史ところで「考古」を目的とした小杉榲邨の学については当時、「古物学」とも称されていたようである(注10)。そして小杉の美術に関する論考は、先述した「美術と歴史との関係」にほぼ集約されているのだが、そこでは江戸時代の考証学をはじめとする学問成果を継承していることが理解される。論文中に引用された古文献は、『日本書紀』『神皇正統記』『類聚国史』『大鏡』『古今著聞集』『今昔物語』『栄花物語』『源氏物語』『小右記』『新撰字鏡』『倭名鈔』『類従名義抄』『大間成文抄』『三代実録』『趙宋宣和譜』『扶桑略記』『出雲風土記』『筑後風土記』『東大寺献物帳』をはじめ膨大であるが、一方で、江戸時代に記された古物の考証に関する随筆および図譜類も多数挙げられている。例えば、新井白石(1657−1725)『本朝軍器考』、橋本経亮(1755−1805)『橘窓自語』、森川竹窓(1763−1830)、『集古浪華帖』、伴信友(1772−1846)『鞆考』、藤原貞幹『好古小録』(1795)、柴野栗山・住吉広行『寺社宝物展閲目録』(1792年)、屋代弘賢(1758−1841)『道の幸』、堀直格(1805−1880)『扶桑名画伝』、松平定信『古画類聚』、水野忠央(1814−65)『丹鶴叢書』などである。小杉は、これら先人の研究を尊重し、更に自ら実見調査した結果をふまえて慎重に検討を加え、考察を深めた。そもそも小杉が実見調査の必要性を痛感する契機となったのは、明治8〜9年に正倉院文書の調査であったという(注11)。その後、機会を捉えて調査を行っていたようだが、その実際については明らかにすることができなかった。ただし、明治21年に宮内省に設置された臨時全国宝物取調局(委員長九鬼隆一、取調掛岡倉天心ら)により行われた全国規模の宝物調査にも同行していた形跡があり、目的をもって臨んでいたと考えられる。小杉は予てより、長谷寺に伝わる「長谷寺縁起文」の信憑性を疑っていた。なぜな

元のページ  ../index.html#434

このブックを見る