鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―426―らば、墨帖が世間で流布しているが、体裁も悪く筆蹟行体も「古色あらざるもの」であり、また菅原道真による署名においては「菅」が「管」と誤記されていたためである。そこで原本の署名が「菅」であるか「管」であるかを確認したいと考えていた小杉に、その機会がおとずれた。明治21年6月、「宝物点検のために本寺に出張して、物品古文書らを思ふがまゝに手まさぐるをり、こまかに原本を目撃するに、全篇の書体もむげに遠からぬ世の筆意」であった(注12)。そして菅原道真の書でもなく、道真の作文でもないことは明白であると断定した小杉は、宝物取調局に具進したという。ところで、この明治21年の臨時全国宝物取調局による宝物調査の意義は、「歴史の参照、美術の模範を探求し、国宝を保存して美術の実業を振興する」(注13)ことにあった。ゆえに美術のみならず、歴史の分野からも調査に加わっていた。修史局編輯長重野安繹(1827−1910)、修史局元局員川田剛(1830−96)である。川田も小杉と同様に「書物と実物」を「対考」し史実を正すことを試みており(注14)、「美術」と「歴史」の関係性で模索していた様子がうかがえる。ただし、こうした試みが発展することはなく、総じて「美術」に重心が傾いた調査であった。そしてこの後も、博物館を中心に続けられた宝物調査の成果を受け、明治34年(1901)には『稿本日本帝国美術略史』が刊行される。興味深いのは、これと時を同じくして明治34年に、小杉榲邨・横井時冬による『大日本美術図譜』が出版されていることである。『稿本日本帝国美術略史』が、当時の最高の技術を駆使した写真図版が掲載された洋装本であるのに対して、『大日本美術図譜』は、木版多色刷で66件の工芸品が色鮮やかに描き出された折本画帖であり、さらに和装本の解説が伴われているなど、対極的であった。また、後者の解説はあくまでも作品の個別解説であった。そして「美術史」を補完するものとして位置づけており、本居門下の国学者・横井時冬(1859−1906)と小杉連名の序文においては、「世間の美術史工芸史」などの「参巧に供して稗補をあたへむ」と記している。これは、『扶桑名画伝』(明治32年刊)および『増補考古画譜』(明治15〜34年刊)と同様である。これら両書物は、編纂時期が幕末から明治期というように時代を跨いでおり、前代の学的遺産を継承して明治期に成果となって世に現れたといえる。黒川真頼・小杉榲邨らの校閲を経てようやく刊行をみた『扶桑名画伝』(哲学書院)は、片野四郎による言葉を借りれば、「此書ニ由リテ画家ノ系統ヲ尋ネ、美術ノ淵源ヲ追ハバ、将来美術史ヲ編纂スルニ於テ、亦焉ゾ小補ナシト曰ハンヤ」、そして『考古画譜』と「相侍リテ、美術界ノ金科玉条ト為スベキナリ」という(注15)。このように

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