―427―両書物が美術史編纂の重要な基礎資料であるという評価は、現在においても変わるものではない。ただし『稿本日本帝国美術略史』と『増補考古画譜』の違いは明らかであり、「美術史」であるか「画譜」であるかといった形態の差異は無論ながら、最も顕著であるのは、「美術」を目的とするか否かにある。『考古画譜』には、「冠帽図」「楽器図」「元服図」「御即位図」「装束図式」「集古図」「集古十種」「大内裏考証図」「度量図」など現在では美術史の対象とされない古物を画いた図が多数含まれている。これは、まさに「考古」を目的としているためであり、古の事物を知る手がかりとしての、いわば歴史資料としての「図」が「絵画」と共に収録されているのである。このような認識は、美術史を志す者にとっては批判の対象とされた。宝物取調局の委員長をつとめた九鬼隆一は、美術は「当時人世の精神を代表」するものと位置づけ、「古物」と「美術」が全く異なるものであると述べている。そして「古物」に携わる営みは、「過去」に生きて「新路」を開くに至らないとして退けられた(注16)。まとめ小杉榲邨や黒川真頼らが目指した「考古」が、「歴史」という概念と異なることは言うまでもない。「考古」における「古」は、あくまでも「古さ」や「いにしえ」としてであり、論考の記述には、執筆者が記した時点より「〜年前」である、といった記述も見られる。いわば、今と古の距離を計ることに終始しており、「古」は層状に積み重ねられるものの、時代の推移や展開を想定する概念とはならなかった。彼らにとっての歴史とは、いわば一年ごとに刻まれた年表の空白を埋める作業に等しい作業であったかもしれない。国立国会図書館には、小杉榲邨による『稿本徴古年表』が残されている。神武天皇の頃より「今上天皇」(明治)までに至るわが国の歴史を、一年ごとに区切って表となし、そこに年銘を有する仏像や銅器などを充填することで、連綿とした歴史を綴ろうとしているのである。以上のような小杉や黒川真頼ら主に国学者の美術への関わりは、「美術」という概念を目的としておらず、また、諸領域を跨ぐ学問の在り方は、学問が専門・分化されていく近代において位置づけることが難しい。しかしながら、美術史という学問が「もの」と資料の両者で成り立っているように、美術史編纂が試みられた時代を背景に体系的な資料集成が一方で求められ、小杉や黒川ら「考古」を目的として考証を重んじる国学者が、いわば美術と歴史の合間に位置して美術に関する論考を著述し、画史画人伝を集大成したと考えられる。
元のページ ../index.html#436