鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注小杉榲邨に関する研究は、特に正倉院文書の調査に関して近年注目されており、主なものとし 湯之上隆「小杉榲邨の蒐書活動と書写活動―正倉院文書調査の一齣」■小杉榲邨「美術と歴史との関係」『皇典講究所講演』5〜107明治22年4月〜26年7月■小杉榲邨「美術と歴史との関係」『皇典講究所講演』96明治26年2月■小杉榲邨「美術と歴史との関係」『皇典講究所講演』48明治24年2月■注■に同じ■明治初年の「古器旧物」保存における価値観・認識が、江戸時代の〈古物〉という認識(「古」を尊重し「古」の真偽を質すため、古器物等の考証を行い正確な記録描写を目指した)を受け継ぐものであることは、以前指摘したのでここでは省略する。(拙稿「古物―江戸から明治への継承」『近代画説』12平成15年12月)■たとえば一遍聖絵について次のように記した。「往々古ヲ考ルニ足ル。円伊、画力愛スベシ。「むかしのてぶり[注:風俗・風習]を、しらむとするには、昔のふみの、ただしきによりつつ[中略]昔の家々の記どもに、とりそへて、たよりとすべきは、むかしえばかり」。(黒川春村「扶桑名画伝序」安政6年)「此ごろ諸生めく何がし突然ものしていへらく先生[注:小杉]が専門めかし給へる古物学の事に就てうけ給はらまほしき事ありといふ」という。(小杉榲邨「玉の価値」『好古叢誌』10明治25年10月)「此類稀世の物品を、正史家乗に対照して、上代の事実を容易に徴証を得し事のありける以来、ただに史乗本文のミの考按にては、当昔の実際を想像するに乏しき事情を大に感覚し、必ず史乗本文と遺存現品と相対照して、はじめて事蹟の全貌を知るといふを持論とせり。」(小杉榲邨「美術と歴史との関係」『皇典講究所講演』5 明治22年4月)小杉榲邨「美術と歴史との関係」『皇典講究所講演』42明治23年11月。臨時全国宝物取調局の調査は、同年6月18日に長谷寺を訪問しており、小杉も一行に加わっていた可能性が考えられる。注に同じ(『日出新聞』明治22年1月30日)。「夫れ古物を探討保護するは有益にしき面白き―428―明治22年1月19日に大阪商法会議所にて行われた九鬼隆一の演説による。(『日出新聞』明治22川田剛「宝物取調に付き所見を述ぶ」『皇典講究所講演』4 明治22年4月小杉榲邨「扶桑名画伝解題」(片野四郎の言葉)による。(『史料大観 扶桑名画伝』哲学書院て以下のような論考がある。大沼宣規「小杉榲邨の蔵書形成と学問」『近代史料研究』1 平成13年西洋子「明治初期の正倉院文書の整理」『東京大学史料編纂所研究紀要』2 平成4年湯之上隆「小杉榲邨の蒐書活動と書写活動―正倉院文書調査の一齣」『日本中世の政治権力と仏教』思文閣史学叢書 平成13年2月皆川完一「正倉院文書の整理とその写本―穂井田忠友と正集―」坂本太郎博士古稀記念会編『続日本古代史論集』中巻 吉川弘文館 昭和47年東野治之「小杉榲邨旧蔵の正倉院及び法隆寺献納御物―その売却事件と鴎外の博物館総長就任―」直木孝次郎先生古稀記念会編『古代史論集』下 塙書房 平成元年但、其図小ニシテ詳細ヲ尽シガタシ。惜ベシ」。(藤原貞幹『好古小録』寛政7年)年1月22日)明治32年)

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