佐久では五十嵐竹沙、上田からは土屋廉夫、善光寺からは小島梅外、渋温泉では 素封家に揮毫した資料の多くは、縦一尺・横四尺程度の鵬斎自筆の記の扁額であ■駒澤清泉、山田松斎、山岸蘭腸宛の揮毫は、七絃琴に関する事柄に終始している。で指摘した案内役、紹介者というのは重要であったらしい。特に初対面の場合は、―35―情報の伝達や文化の攪拌をもたらしていたといえる。4.亀田鵬斎(1752〜1826)の信濃遊歴資料〔表2〕山田松斎が後半生を鵬斎門人として生きることを決意した直接的な動機は、鵬斎の信濃遊歴であった。松斎のみならず、文化6年(1809)から8年(1811)にかけての亀田鵬斎の信越遊歴は、北国街道沿いの地方文人たちに強い印象を与えたようである。当時鵬斎を迎えた素封家宅には、今なお床の間に鵬斎の扁額が掲げられ、ハレの日には酒井抱一の袋戸や屏風を誂えるという様子を、調査の際、筆者は度々見聞した。鵬斎の記憶は、孫子に語り継がれながら現在も生き続けている(注4)。亀田鵬斎は、寛政異学の禁で「異学」の烙印を押され、「旗本の士千人」といわれた門弟たちが相次いで去り、終いには塾の閉鎖を余儀なくされたという。しかし、断固として持説を主張するその堅確さを人は称賛し、巷の人気は高まったといわれる。文化6年、足掛け2年半に及ぶ上野、下野、信濃、越後を廻る遊歴は、鵬斎自身にとっても長期にわたる大規模なものであった。鵬斎の信濃遊歴資料からは次の点が指摘出来る(注5)。畔上聖誕が同行した。山田家へは松斎の友人、聖誕の案内によって来訪する。る。内容は当主とその土地を中国風に賛美する詩文であり、多くは当主の書斎、楼の名を題とした。詩文の他、松斎、蘭腸の自作琴には鵬斎が銘を施している。復路、鵬斎は松斎自作の琴を贈られ、終生愛蔵した。琴が特筆すべき文芸であったことがわかる(注6)。誰が案内・紹介者であるかが訪問の可否を左右した。山岸蘭腸に宛てた柏木如亭書簡にも、如亭が石州流の茶人、稲葉宗祐を駒澤清泉に紹介するため、蘭腸に案内役を依頼している(注7)。地元における交友網は、他者を相互に紹介する際の検査・保険機能も果たしていたといえる。5.文人の滞在信濃の素封家たちは多くの文人の遊歴を寛容にもてなしていたと推測される。一例として、佐久の並木信粋家に鵬斎と同時に滞在した蓮斎という南画家の資料がある。
元のページ ../index.html#44