鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―434―けられたところは、白地となるのである。器種によっては、白釉もしくは透明釉薬を施釉して白地とする。これは、唐三彩の生産工程である「素焼き後、器種によっては施釉の工程で化粧土をかけ、白地もしくは三彩・黄釉・緑釉を施釉するものがあり、三彩と白地は同一の技術発展のなかにある。」(注12)と共通する特徴である。このような特徴をもつ遼三彩の年代があきらかな遺品は、内蒙古自治区赤峰市巴林左旗四方城屯遼墓(咸雍2年=1066銘石経幢)出土三彩印花文円硯〔図2〕が初出である。遼三彩は、墓室の主室構造が六角墓や八角墓からの出土がほとんどで、11世紀後半以降、12世紀前半のごく短期間に墓中に納められている。これらが製作された背景については、興宗代(在位1031〜1055年)に出された喪葬に関する禁令(1042年)(注13)と、副葬品の階層規定(1043年)(注14)が行われたことが影響していると考えられる。三彩が金属器写しであることは、敖漢旗瑪尼罕郷西溝墓出土三彩稜花長盤〔図4〕と類似する銀器〔図15〕(注15)が出土したことで証明され、かつて唐三彩の碗・盤がそうであったように、金銀器の代替として生み出されたと考えられる。契丹人を統治する北院枢密使を務めた蕭考忠は、禁令が発布された翌年の重煕12年(1043)に没し、大安5年(1089)に遼寧省錦西県に葬られた。彼の墓からは、典型的な遼三彩稜花角盤と稜花長盤が出土している。その特徴は、内蒙古自治区昭烏達盟寧城県小劉杖子M1墓出土三彩稜花角盤〔表1−8〕〔図3〕と同様で、粘土板を型に押し付け器形を整えて文様を陽刻している。内底は四角に区切り、見込み中央に花文を置き、四方に葉をのばしている。外縁はそれぞれ二区画に分け、そのなかに花文を陽刻している。底部を除いて白下地を施したのち、全体に透明釉をかけ、花に黄釉、葉に緑釉を筆で塗り分けている。低火度焼成された軟陶である。内底中央に三点の目跡が残るのは、三叉トチンを使用して重ね焼きをおこなったことを示している。三彩や鉛釉を施したものは耐火板(焼台)に器物を直接載せ、焼成する器物の内底などに三叉トチンを置いて、積み重ねて半倒煙式馬蹄形饅頭窯で焼成していたと考えられる。以上のような遼三彩の成形・施釉・焼成の製作技術は、唐代の三彩の窯である河南省鞏義黄冶窯などですでに確立している(注16)。4.遼三彩の源流さて、このような遼三彩がどのように生み出されたのか、その過程を考察してみよう。則天武后時代の華やかな中原の三彩は中・晩唐期には衰退した。しかし、晩唐〜五代には、洛陽白居易(772〜846年)邸宅跡(『考古』1994年8期)から、晩唐三彩の二彩印花方形盤、河南省北窯湾1号墓(大中5年=851葬)(『考古学報』1996年3

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