鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―435―期)三彩壺・三彩塔形壺などの出土例があり、盛唐の墓中に際立っていた俑類などは見られなくなったが、生活容器を中心に三彩は継続して製作されていた。北宋が中国を再統一し、東京河南省開封を都(960年)とすると河北省・河南省などの窯業は活況を呈し、青磁・白磁・白地・黒釉・三彩などの陶磁器を生産した。河北省定州市静志寺舎利塔塔基(太平興国2年=977)出土の二彩桃、浄衆院舎利塔塔基(至道元年=995)出土の三彩蓮弁文浄瓶などの定窯系三彩、河南省密県法海寺址から出土した三彩舎利容器(咸平元年=998銘)は宋代の三彩の基準を示している。近年、汝窯でも三彩を焼成していることがあきらかになった。遼は五代諸王朝、北宋、および西夏とは度々緊張関係にあったが、景徳元年(1004)『~淵の盟』を締結して和平を得た。その注目すべき変革の1つに、宋・遼間で皇帝の生辰・正旦に定期的に使者を派遣し始めたことが挙げられる。東京開封府から遼都まで、南京を通り中京へむかう国信使節の交通路である東ルートには河北省á州窯、定州窯、磁州窯が、河南省をぬける西京(大同)への西ルートには鞏義黄冶窯、陝西省の耀州窯が位置する。使節の往来による朝貢、互市・à場・密貿易などによる貿易により、宮廷のみならず、科挙官僚、地方の軍閥、新興地主、商人、僧侶が担い手となってさかんな文化交流がおこなわれたことは、想像するに難くない。立ち返って遼域出土の三彩の出土例をみると、10世紀〜11世紀にかけておおよその年代が推定される三彩を指摘することができる。①内蒙古自治区敖漢旗貝子府鎮駅吐墓出土三彩印花雲鶴文盤〔図5〕(注17)平底で体部がほぼ垂直にたちあがる洗という器形の盤である。「官」字銘のある白磁刻花水注を供伴すること(注18)から、10世紀から11世紀はじめに年代が考えられる資料である。実見したところ、ざっくりした胎土だが、化粧土はない。内底中央の円文の両側を挟んで雲文、さらにその外側に四羽の鳥文を等間隔に配した唐三彩の意匠の流れを汲む文様を陰刻している。全体に緑がかった透明釉を施し、褐釉と緑釉を印花文様の上に塗り分けている。口縁を五ヶ所、わずかに内側に押している。②内蒙古自治区克什克騰旗二八地2号墓出土三彩盤口瓶〔図1〕(注19)墓の主室が円形単室構造で、10世紀中葉を中心に存在した盤口瓜稜壺を共伴する(注20)。通体に緑釉を施し、胴部蓮弁に黄釉が流しかけられた二彩である。注目されるのは、胴部に蓮弁文が浮き彫り風に付く点で、安徽省合肥南唐墓(天福11年=946没)出土白地蓮弁文水注の装飾と近似する(注21)。③内蒙古自治区和林格爾県M3墓出土三彩鸚鵡形水注〔図16〕(注22)この墓は主室が円形構造であり、10世紀末以降に構築されたと考えられる。この墓

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