―436―から出土した三彩鸚鵡形水注は、河北省定州市静志寺塔基(977年)から出土している褐釉の水注と器形が近似する。遼域出土ではあるが、観台鎮磁州窯址Y3号窯から同様の水注片(注23)が出土していることから(筆者実見)、遼に運ばれた磁州窯の輸入品であろう。これらの三彩は、唐三彩が衰退した以降、遼三彩の完成以前に遼の国内に存在した三彩として興味深い。次に遼寧省朝陽市北塔の地宮(重煕年間=1032〜54年埋納)(注24)から出土した内底に蝶文や四葉文が陽刻された一辺を四弁の稜花につくる磁器質の白磁稜花印花文角盤〔図17〕に注目してみたい。遼の国内では北京市房山県北鄭村塔基(『考古』1980年2期、北京蜜雲治仙塔(『文物』1994年2期)、巴林右旗金溝5号墓(『文物』2002年3期)、また長沙(『文物』1984年1期)からも出土報告があり広域で流行した器形であろう。遼寧省義県清河門蕭氏・夫人M2合葬墓(墓誌清寧三年=1057年刻)出土白磁印花文角盤(注25)は、一辺が五弁の稜花につくる角盤で、三彩稜花角盤〔図3〕と同様の器形である。このような高火度焼成の白磁稜花角盤が、遼国内では遼三彩稜花角盤に先行して出土している。白磁稜花角盤にみられる器形や、文様を陽刻するといった意匠は、金銀器の代替としてのみではなく、遼三彩の造形の萌芽に繋がったのではないだろうか。おわりに遼三彩は、白化粧した素地(龍泉務窯では施さない)に透明釉をかけたキャンパスに黄や緑の花や魚の文様が浮かびあがり、鮮やかな色使いが魅力的な、型づくりで陽刻装飾のある盤類が特徴である。それらは金銀器に替わって、11世紀後半以降、12世紀前半のごく短期間に集中的に製作された墓中に納められた明器である。唐三彩の窯である河南省鞏義黄冶窯や、定窯系などの焼成技術を継承し、耐火板(焼台)に器物を直接載せ、焼成する器物の内底などに三叉トチンを置いて、積み重ねて半倒煙式馬蹄形饅頭窯で焼成した。そして10〜11世紀初に遼国内に存在した三彩は、こうした遼三彩の先駆けといってよい。遼三彩は従来磁州窯系の大きな枠で捕らえられてきたが、唐代の伝統と鞏義黄冶窯、定窯系の技術を受け継ぎながら、新たな創造を生み、遊牧民の嗜好が反映された作風が見事に開花したやきものなのである。遼三彩終焉後に、金代につづく漢人地主の張氏一族の墓、それらは遼西京大同に近く、中原との貿易・軍事の要衝である河北省張家口市宣化に位置する下八里群墓のうち、張文藻墓(大安9年=1093改葬)(注26)、張世本・焦氏墓(大安9年=1093葬、
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