鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注遼国の成立に関しては、耶律阿保機が907年君長位に就いたときと、916年に天皇帝と称し神冊 単色釉を施釉したものと多色釉を施釉したものとを区別するため、二彩も三彩に含むことにす■長谷部楽爾「宋磁序説」『宋磁』朝日新聞社,1999年,24〜29頁■紀年墓からの三彩の初出は、趙徳鈞・妻種氏墓(応暦8年=958葬)から三彩片が出土してい■今野春樹「遼代契丹墓の研究」『考古学報誌』第87巻第3号,2003年,1〜36頁■李文信「林東遼上京臨|府故城内瓷窯址」『考古学報』,1958年2期■洲傑「赤峰缸瓦村遼代瓷窯調査記」『考古』,1973年第4期■李文信「遼瓷簡述」『文物参考資料』,1958年2期魯J「北京門頭溝龍泉務発現遼代瓷窯」『文物』,1978年5期北京市文物研究所『北京龍泉務窯発掘報告』文物出版社,2002年三彩釉が付着している三叉トチンの長さは16cm〜6cmと幅があり、大小さまざまな器形に対関口広次「唐三彩の窯について」『中国の陶磁3』,平凡社,1995年『遼史』巻19興宗本紀2 重煕11年(1042)12月丁卯条『遼史』巻19興宗本紀2 重煕12年(1043)6月丙午条―437―皇統4年=1144合葬)(注27)、張世卿墓(天慶6年=1116没・葬)(注28)からそれぞれ出土している三彩盤(Ⅱ式A)は、削り出し高台がつき、腰折れ、広い鍔縁は六弁の輪花に造る。内底に線彫りして描かれた複弁の宝相華文は、芯を白く残し、花は緑、その他の部分は黄色で塗り分けられている。内底に三箇所の目跡が確認でき、鞏義黄冶窯の技術を継承している。これらは、器形のみならず黄釉をベースにしていることや、共伴する陶器も魁や瓜形水注などの目新しい一群である。こうした三彩は、主に金代華北の磁州窯系の窯で焼かれた陶枕を代表とする「宋三彩」に繋がっていくのである。と建元したときとする二説ある。る。ると記されているが、詳細が不明であるために省略した。穆宗時期(951〜969年)には方形墓が盛んに構築され、聖宗時期になると円形墓が出現する。聖宗〜興宗時期(983〜1012年)には円形大墓が盛行し、と同時に方形墓も数は少ないが引き続き構築される。道宗〜天祚帝時期(1055〜1125年)には多角形墓が大量流行し、長方形小墓、円形墓が共存している状況を示している。李文信「遼瓷簡述」『文物参考資料』,1958年2期彭善国・郭冶中「赤峰缸瓦窯的制瓷工具,窯具及相互問題」『北方文物』,2000年第4期拙稿「遼磁研修旅行ノート(二)」『陶説』日本陶磁協会,2000年4月号出光美術館所蔵の小山冨士夫氏赤峰缸瓦窯収集陶片資料には、三叉トチン、三彩稜花形長盤、緑釉の陶片がふくまれていることからも確認される。(筆者実見)応して重ね焼きをおこなっている。長細い団子状の胎土目は白地の焼成時に使用している。「禁喪葬殺牛馬、及蔵珍宝。」

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