鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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『宝善堂記行』〔表3〕 『参宮紀行』〔表4〕―36―蓮斎は文化6年、鵬斎が信州に遊歴すると聞くや後を追って並木家に来訪、鵬斎と交わり、以後7年間にわたって同家に滞在し、仮寓中客死した。同家墓地には信粋の建てた墓碑が現存している(注8)。6.松斎 旅日記文政6年(1823)、山田松斎が師、亀田鵬斎72歳の寿宴にかけつけ、鵬斎の私邸に約一ヶ月滞在した旅の記録である。松斎は、「文人の里」と称された金杉を拠点に鵬斎の旧著の再版、友人の遺稿集の手配をはじめ、菊池五山や大窪詩仏らに詩文の相談を、酒井抱一や鍬形A斎、雲室上人らに書画の作成を、勾田台嶺には画手本を、益田勤斎には印判のほか表具も依頼した。そして彼の郷里から出稼ぎに来ている村人たちを芝居(歌舞伎)見物へ連れて行ったりもしている。また、江戸への道中では往路復路ともに門人・同学の士を訪ねるが、その交流は北信はもとより上田、佐久、上野国にまでおよんでいる。彼らは『信上當時諸家人名録』などに登場する地方文人たちであった(注9)。文政12年(1829)還暦を迎えた松斎は、頼山陽に自著の序文を請うため、自著を携え、関西・北陸路に赴く。『参宮紀行』と題されたこの記録には、冢田大峯、本居健蔵、京都智積院学頭道本などの文人を訪ね、名所旧跡を巡り、各地の物産や芝居を見物し、買い物をする松斎の姿が記されている。京の鳩居堂では主人との再三の煎茶談議や煎茶具の入手をする様子が記され、道中をとおして煎茶や農事に関する記述が多くみられる。7.「抱一」というブランド『宝善堂記行』の記帳に際し、松斎が興奮のあまり筆を振るわせた酒井抱一(1761〜1829)は、ほかの信濃文人にとっても憧れの著名人であった。彼らは、鵬斎や文晁、そして抱一というブランドに果敢に接触を試みている。こうした事例を小諸の小林葛古と小山魯恭にみることが出来る。小林葛古(1793〜1880)は、約60年にわたる日常の記録をまとめた随筆『きりもぐさ』の筆者として著名な人物であるが、名主や小諸藩の世話係も務めながら数百もの俳諧の門人をかかえた文人である。『きりもぐさ』には、文化の初め頃から谷文晁の画をめでることが盛んになったが、これは小諸の松井r山が文晁の門に入ったためで

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