鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―444―その後、1930年の『イッテン日記』には色彩名を添えた星型の図が示されており、1961年には『色彩の芸術』に掲載された。この所謂「カラー・スター」はイッテンの色彩に関する重要な図となった。この星型の形がルンゲの色彩球によることはよく知られている。『ユートピア』、『イッテン日記』、『色彩の芸術』に掲載された「カラー・スター」を比較すると、『ユートピア』の「カラー・スター」の色彩配列は、後の二つと異なっている。この「カラー・スター」は、ヘルツェルの色彩論に近い色彩配列である。これに対し、1930年以降の「カラー・スター」は、黄色が一番上になる色彩配列となった。1930年の『イッテン日記』には12色環について次のようにある。「われわれが色彩の全体性を一つの12分割された円に配列する時、赤紫をもって始め、スペクトルの色彩順序に青紫をもって終わると、見せかけのまとまった色彩の世界がわれわれの前に生じる。時計の針の動きと反対に順序を展開し、下から始める必要がある。そうすると暖かい活動的な色彩が右側に、私たちの右の活動的な身体と平行になり、そして冷たい受動的な色彩が左に、われわれの左の受動的な身体と平行に立つようになる。明るい色彩は上の方に、暗い色彩は下の方に並ぶ。(中略)太陽は東に昇り、天頂において最も強く輝き、西に傾き、そして夜の青へと沈む」と。このように、イッテンは色彩の配列を太陽や身体とかかわらせて考えていたことが窺える。また、『イッテン日記』の副題には、「―造形芸術の対位法への寄与―」とある。これは、『イッテン日記』が、音楽における対位法理論に相当するものを造形芸術の領域において導きだすことを目指していたことを示している。イッテンは、ベルンで音楽をハンス・クレー(パウル・クレーの父)に学び、バッハなどの音楽を好んで演奏していた。周知の通りバッハは対位法の大家であった。そしてバッハの音楽に音による絵画性、「音画」がみられることは、よく知られている。イッテンのウィーン時代の「日記帳」には、バッハの「マタイ受難曲」にみられる十字架の音型や「ロ短調ミサ」について記されている(注6)。イッテンが自らの造形芸術書を纏まった形で初めて出版するにあたり、『イッテン日記』の副題に「対位法」という言葉を用いたのは、彼の音楽とのかかわりがその背景にあったと考えられる。3.イッテンの色彩探究と音楽とのかかわりシュトゥットガルトで描かれたイッテンの作品に1916年の「バッハ歌手のリンドベルク(Lindberg der Bachsänger)」がある〔図2〕。これは、イッテンが度々家に招かれ、バッハやヘンデルやモーツァルトなどのアリアを歌って聴かせてくれた友人、歌手ヘルゲ・リンドベルクを描いた作品である。後年イッテンはこの作品について次の

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