鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―445―ように記している。「色環の全体性から空間的な色彩の響きの効果を発展させ、すばらしく客観的で宇宙的な抽象化されたバッハの演奏を体験することをもたらすべきであろう」と(注7)。イッテンが色環の全体性と記しているように、この作品は、赤・黄・青・緑などの色彩を巧みに構成し、静的な中に律動感を感じる画面を創り出している。イッテン研究でも知られるカリン・フォン・マウアーも前述のイッテンの文章を取り上げ、主要六色を用いてポリフォニックに描いている点について指摘した(注8)。しかし、更によく見ると、この作品はイッテンの色彩論の中に見られる同時的コントラストや明暗のコントラスト、寒暖のコントラスト、色彩調和等を意識していることが窺える。イッテンは、先の文章に続けて次のように語っている。「私はこの時期、絵画制作を始める前に毎日バッハの二声によるフーガやインヴェンションを演奏していた。私はある考えがひらめいた。絵画を描くことは、バッハのフーガのモチーフの音程のように、動機的であると同様に抽象的である」と(注9)。ここに、イッテンの音楽と絵画との重要な接点がみとめられる。1915年の写真に、イッテンがピアノを弾いている様子を写したものがある。イッテンは、バッハの音楽を好み、演奏することができた。この作品にみられるフォルムの構成は、音の響きを感じさせるものであると同時に、バッハのフーガやインヴェンションの音楽的な特徴を見ることができる。人物の胸元や服の裾にみられる色によって仕切られたフォルムには、バッハの音楽に特有な重なり合う音の動き、音符の細かく確かな動きが感じられ、背景の大胆な四角形からは通奏低音の響きが聴こえるようである。このように、バッハの音楽にみられる構築性の高いハーモニーがこの作品の中で色彩と形により表現されている。この作品についてイッテンは1930年の『イッテン日記』で次のように述べている。「この肖像で私はあるバッハ歌手の雰囲気を構成しようと考えた。正確な形と線、強い個性的な色彩の和音がこの目的に奉仕する。私はこの目的に向かう道が明らかになることを希望する。それが非常に困難と分かった時、私は対象のない形や色彩の研究を始めた」と。更に、「バッハ歌手」を描いた後、1916年10/11月の「日記帳」にイッテンは次のように記している。「私は今後もう芸術作品をつくらないつもりである。ただ思考の集中、これのみを表現する。この祈りは神への思考の集中でもある。絵画は形−色彩に集中することを意味する」と(注10)。

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