鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―446―上記二つの記述には、この時のイッテンが形と色彩について集中的に取り組もうとしていた姿勢がみられる。例えば、「青−緑 響き」(1917)、「田舎の祭」(1917/18)、「青のコンポジション」(1918)、「二つの形のテーマによるコンポジション」(1917)、「赤い塔」(1917/18)、「上昇と静止」(1918/19)、「垂直−水平」(1917)といった作品があげられる。タイトルの中にも対照的なものが含まれているが、色彩の様々なコントラストの効果がそれぞれの作品に見られる。「バッハ歌手」の画面中央は明るく、周辺に暗い色が配され、明暗のコントラストがみとめられるが、初期の大作の一つである「上昇と静止」〔図3〕にも画面中央に明るい色彩があらわれ、周辺に暗い色彩が配されている。これらは、イッテンのこの時期の作品の傾向の一つと言えるだろう。ウィーン時代のイッテンにとって、1919年の作曲家ヨゼフ・マティアス・ハウアーとの出会いも重要である。ハウアーは、C(ド)音から他の音への音程間隔を異なる色彩で示した。イッテンの「日記帳」には、「ハウアーがCをすべての音程間隔に関連させるように、私はすべてを白により関連させる」とあり、音と色彩を結びつける試みがなされている(注11)。ハウアーとイッテンとの関係について研究しているディエタ・ボーグナーは、バウハウスに音楽学校を創ることを二人が思い描いていたことを指摘している(注12)。音楽と美術を関連づけた調和の問題については、当時多くの芸術家が取り組んでおり、例えば、スクリャービンは調性を色彩に色分けして音楽的を色彩に置き換える試みを行ない、カンディンスキー、マッケ、ヘルツェル等は音楽を絵画作品に表現する試みを行なっていた。イッテンとハウアーは、このような時代の気運の中で出会ったのである。バウハウスにおいても、ファイニンガーやクレー、ヒルシュフェルト−マック等が音楽と関連する作品を制作した。1920年のヴァイマールのバウハウス時代に記された未公開の日記には、五線譜に描かれた二つの旋律と音楽を造形化したと考えられるスケッチが記されている〔図4〕(注13)。このスケッチは、当時のイッテンの作風を感じさせるものである。更にイッテンの音楽と美術とに関わる日記帳への記述は、1931/32年に記された未公開の日記帳にもみられる〔図5〕(注14)。そこには、林檎のスケッチが二つあり、その横に五線譜の旋律が二つ描かれている。二つのスケッチの違いは、林檎の形が同じで、背景の形が丸みを帯びているか四角形であるかの点にある。また、音符では、二つとも、上の旋律は同じで下の旋律が変化している。これらは、音楽の二声による調和をフォルムの明暗による調和に置き換えようとしていたと考えられる。また、イッテン・シューレでは、歌が朝の練習に取り入れられた。それは、音楽的な響きにより、学生た

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