鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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山田松斎 柏木如亭―37―ある、とか、池田寛蔵という鑑定に優れ、新古の書画を売るものが現れたので文化が一時に開けた、と記されていて当時の小諸における書画の状況を伝えている。葛古宅には現在も鵬斎筆「美篶家」扁額と、対をなすように飾り棚の袋戸にハレの調度として、酒井抱一落款の葡萄図が誂えられている。扁額は、鵬斎の落款から文政6年とわかるが、葛古はこの年、俳諧の師倉田葛三の遺稿集『筑紫みやげ』を刊行、亀田鵬斎に序文を依頼している。小諸の小山魯恭(1776〜1833)は、晩年の小林一茶とも親しく往来した俳人である。文政8年(1825)、かねてから観月・観桜の名所にしようと考えていた地元の景勝地、糠塚山に望月堂を建て、堂には酒井抱一に依頼した扁額「望月堂」をかかげ、一山には二百五十株の桜樹を植えた。この記念に出版したのが、観月を詠んだ俳句や漢詩、交友のある人々の俳句、狂歌、連句を収めた『ぬかづか集』(初編)である。『ぬかづか集』の巻頭には、先述の小諸出身の絵師、松井r山による糠塚山図と、r山の縁故によって文晁に描かせた浅間山と小諸の鳥瞰図が据えられている(注10)。第2章 江戸時代後期の地方市民社会における文人趣味の実態江戸後期の北信濃における文人趣味(注11)1.絵画習得への情熱松斎は、『宝善堂記行』のなかで田中慶斎という人物から頼まれていた画手本を勾田台嶺から入手している。そして雪舟山水図(15両)、探幽三幅対(15両)、沈南蘋大花鳥(10両)をはじめ、交友のある文人の書画を中心に収集した68件の松斎書画目録からも明らかなように、松斎は絵画にも強い関心を持っていた。また、僅かに残る資料から松斎自身も絵画の学習を行っていたことがわかる(注12)。こうした松斎ら地方文人の絵画学習の需要が、供給者である江戸の文人たちを絵画習得へと動かしていたともいえる。しかしながら、絵画の習得には指導者である鵬斎や如亭、雲室らも苦心していた様子が窺われる。天才詩人と名声を博し、また有能な詩文の教育者でもありながら、絵画の習得を目指した如亭の背景には、地方の求めた絵画の需要があったと考えられる。如亭は、文化2年(1819)、勾田台嶺とともに信越地方を遊歴し、『芥子園画伝』をテキストとして台嶺から山水画の技法を学んだ。『傍訳標注 芥子園画伝』は、如亭が台嶺に質問しつつ『芥子園画伝』に解説をくわえたものである。如亭の訳業は、現

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