―452―した事例などがすぐに想起されよう。これに対して18世紀フランスの場合には、ある種の葛藤をともないながら北方の風景画が受容されていたと考えられる。中央集権的な性格が強く、ジャンル間のヒエラルキーが意識されていたフランスでは、公的に推奨されたのはあくまでも歴史画につながるイタリア絵画であり、風俗画や風景画に関係の深い北方絵画は二次的なものとされてきたからである。しかし、世紀始めには、あまり認知されていなかった北方絵画であるが、その購入は世紀をとおしてめざましく増大する(注3)。また、版画化されることによっても、広く流通することになった。たとえばヤコプ・ファン・ロイスダール作品は、1770年代にル・バやド・ボワシューによって、盛んに版画化されている。また、版画にする際の題名も、「スケルヴァン、つまりスヘフェニンゲンの眺め」のように、特定の地名を入れ込む例がみられるようになる。また、デザリエ・ダルジャンヴィルは、ド・ピールの画家伝に多くのオランダ画家を付け加える作業を行った。ホイエン、ウェイナンツ、ヤコプ・ファン・ロイスダールなどである。作品が流入し、取引が盛んになったのと平行して、より具体的で正確な情報が求められたことが伺われるであろう。さらに、1753年には北方の画家についての4巻からなる辞典さえ発行されるにいたる(注4)。北方絵画の流入は油彩画だけにとどまっていない。当時行われていた風景画の習得の一段階として、先行作例を模写して構図のつくり方を身体で覚える、というものがある(注5)。この場面でヴェネツィアの風景素描だけでなく、北方の素描が使われていたことはつとに知られている。その代表的な例としては、ブーシェがブルマールトの素描を模写していたと考えられる(注6)。ブルマールトの、少し震えるような描線はブーシェの素描と強い親近性を持っているであろう。このように大量に流入した北方絵画のフランス風景画への影響が指摘できる重要な要素の一つとして、点景人物の問題があることを指摘したい。風景画の中に描かれる、小さな人物のことである。そもそも、風景の中に描かれる人物は、どのような意味を持っているかによっては、たとえ小さくても、点景人物ではなく登場人物になりうる。その時、絵画は風景画というよりも、風俗画あるいは物語画と呼ぶのが適切なものになる。たとえば、ここですぐに想起されるのは、エジプト逃避途上の聖家族であろう。フランスの場合に風景画と点景人物の展開を考える上で注意すべきは、ロココを経由していることである。周知のように、ウァトーを嚆矢としたいわゆる「雅宴画」といわれるジャンルは、風俗画の一分野でありながら、野外であることが必要条件でも
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