パリのドイツ人サークル―453―あって、風景画的要素が非常に濃い。ウァトーは、たとえば北方からの画題である「村の結婚」も、洗練し、イタリア風の松の木の下で行われる優雅な集いに変容させた〔図5〕。ウァトーの雅宴画に登場する人物たちは、エレガントな衣装に身をまとった貴族の男女であった。たとえ村の結婚といわれる作品であっても、そうである。ウァトーを継承したパテルの描く野外での宴会においても同様である。しかし、雅宴画がすたれるのに並行して、風景画の中に描かれる人物が、以前よりも身分の低い人々になっている場合が多くなっていく。これは、オランダ、フランドルの絵画からの影響ではないかと考えられるのである。このような部分的な影響関係にとどまらず、まるで贋作をつくるかのようにも見えるほど、北方風に描いた作品を現存作家が制作することもあった。もっとも有名な画家はフラゴナール〔図6〕である。フラゴナールは自身がロイスダールの作品を所有し、模写していただけでない。愛好家のもっていたオランダ風景画に点景人物がなかったため描き足すという仕事もしている(注7)。しかし売買記録などから、フラゴナールの描いたオランダ風風景画は、昔日の巨匠の作品としてではなく、あくまでもフラゴナールの作品として受容、取引されていたと考えられ、興味深い現象である。風景画がフランスに根づくには、プッサンという偉大な自国の先例が存在したことが重要な条件であった。しかし一方で、ラルジリエールやデポルトのように、北方出身、あるいは北方の伝統を引き継ぎながらパリに定住した画家たちの影響も一方で甚大であった。フランスは、美術アカデミーを組織して古典主義美学を自国の文化的支柱としようとしたが、風景画はその枠組みからこぼれおちる要素を多分にはらんでいたのである。ここで注目したいのはパリで活躍した銅版画家を中心としたドイツ人のサークルである。ドレスデンからウィレ(1715−1808)が来仏し、彼を頼って多くのドイツ人画家がかなり長期間定住するようになる。ウィレは銅版画家であると同時に画商、かつ教師でもあった。1757年にはフランスに帰化し、1761年にはアカデミーに受け入れられている。フランスのブーシェなどの作品を版画化しライプツィヒの画商に送る一方で、ドイツ人の制作した風景素描をパリに取り寄せ、販売している。教師としてもすぐれ、ドイツ人だけでなく、フランス人も彼の弟子となった。風景画を得意とし、パリ近郊に弟子を連れて、数日間の写生旅行に出かけるという活動を行っていた。また、
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