鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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■イタリア旅行―454―彼は教養人であり知己も多く、特にディドロとはパリに出てすぐに友人となっている。このような人物の存在により、ドイツ人による風景画の素描はパリにおいて、驚くような高値で取引された。ハッケールトなどに代表される彼らの作品は、フランス人のものとは異なる魅力を持っている。たとえば、ウィレ周辺の画家の中で、ワグナーはグアッシュを風景素描に使用したことは注目されていた。風景をグアッシュをもちいて素描することを「ワグナー風に描く」と記述した例すら見られるという(注8)。1750年代から、パリに住むドイツ人の間では、自国文化を広めようという動きが見られるようになった。この動きには上述のウィレも、翻訳者や書肆を取り持つことによって貢献している。軍隊では以前よりドイツ語が学習されていたが、学習者層がさらに広がり、財務大臣テュルゴまでもドイツ語を学ぶほどであった。このような動向は、文学作品のフランスへの翻訳紹介が先鞭をつけた。とりわけ、ドイツ語圏のスイス人、ゲスナーの作品が熱心に紹介されている。彼の作品は、自然に対する精神的態度においてフランスに影響を与えた(注9)。さらに、ゲスナーは銅版画家でもあった。ゆえに、文学と絵画の協働の一例となったといえるのではないだろうか。いうまでもなく、美術の分野でもっともインパクトの大きかったのは、ヴィンケルマンの著作の紹介である。また、アントン・ラファエル・メングスはローマに留学したフランスからの画学生たちに『パルナッソス』のような新古典主義絵画を提示することによって、大きな影響を及ぼした。しかし、これはあくまでも歴史画、人物画の問題であった。風景画については、ドイツ人は別の形の寄与をしたといえるのではないだろうか。それはつまり、風景素描の手法や語彙を豊富にし、自然への親密な態度を提示するということである。画家たちにとって、イタリアは修業の完成を目指す聖地であった。フランスの場合、ローマのアカデミーが彼らをひきつける中心である。そして、アカデミーでの教育は、歴史画家の養成にとどまらず、野外への風景素描制作をも含むようになっていた。また18世紀には、イタリアを中心としてヨーロッパ各地への旅行が広範囲の層へと拡大していったことは周知の事実である。その結果、当時の風景画家の場合、実際に現地に赴いて描くということが重要視されている。たとえばジョゼフ・クロード・ヴェルネは、王室の注文によって、『フランスの港』シリーズを描いているが、この制作にあたってフランス各地を実際におとずれ、12年をかけている(注10)。また、風景画家と旅行はつきものであったが、画家修業を完成させることのみがイタリアに赴

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