鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
464/535

―455―く理由ではなく、そこには多分に金銭的理由もあった。旅行者の増加につれて記念品としての風景画、景観画の需要も増大したため、ラクロワ・ド・マルセイユやヴォレールのように、ナポリなどの観光地で国際的な成功をおさめるフランス人画家も出現する(注11)。旅行者が増えるとともに、絵画の中に登場する人物にも新しい種類があらわれる。なかでも、観光客の表象は、18世紀になって盛んに描かれるようになった題材である。ヴェルネには、船を仕立ててマグロ漁を見物する貴族を描いた作品〔図7〕がある。また、港で忙しく働く労働者たちにまじって、物見遊山しながらぶらつく人々も描かれる。ナポリで盛んに制作された恐怖をかりたてるような火山の噴火の描写〔図8〕にも、見物人たちの姿が描きこまれることが多い。彼らは、従来の風景画とは異なる身振りを示しているといえる。つまり、これらの絵画において、点景人物は鑑賞者の方を向くよりは、背を向けており、感情移入を求めるのではなく、視線を共有しながら同じ光景を体験している人間として扱われているのである。旅行という行為は、絵画の受容層に共有される体験となっていった。また、旅行のできる人口が拡大するとともに、各地のガイドブックの出版も盛んになる。近代的な「国家」概念が成立するのは19世紀になってからだが、それ以前にも、国や都市の独自性を強調する言説は、辞典や旅行ガイドといった様々な形式で流通していた(注12)。パトロンとの旅行で記録係をつとめるのも画家の仕事の一つであった〔図9〕。その際、描くべき場所、構図の選択も、このようなガイドと連動していたのであろうか。ただ、画家を随行させるほど財力のあるパトロンは、ガイドブックは別にしても、画家に対して訪れるべき場所の選択や、現場での解説を期待していたのは確かなようである(注13)。ゆえに、画家たちは修業の過程で、おさえるべき土地や名所、名品を実見し、記憶することを心がけざるを得なかったのではないだろうか。その意味で、旅行の拡大は、画家たちのイタリア観をパトロン達の趣味に近づける作用を果たしたといえるだろう。おわりにこれまで、北方・ドイツ・イタリアのフランス風景画への影響について確認してきたが、フランスと海峡を隔てたイギリスの場合も見てゆきたい。1763年に七年戦争が終結すると、フランスからイギリスへの旅行が再開されるようになった。仏・英間の影響関係は、フランス文化にイギリスが追従していくという一方向の動きだけではなかった。イギリス風の乗馬服や、紅茶を飲む習慣が輸入され流行したのに加え、風景

元のページ  ../index.html#464

このブックを見る