―38―代でも高く評価されている(注13)。また、如亭自筆の山水画の技法書『山水我法』には、『芥子園画伝』などから抜き出した山や樹木、人物の描き方、四季折々の画題などが記されている。地方回りの遊歴のなかで山水画を学ぼうとする入門者たちに、希望に応じて与えたものと推定されている(注14)。■亀田鵬斎文化13年(1816)、鵬斎も唯一の画譜『胸中山』を上梓している。自らの胸中にある理想の風景を描いたとされる画譜には、『芥子園画伝』のような画譜のモチーフを抽出して簡略化したような画面が展開する。鵬斎の画譜制作も、如亭の場合と同様の事情によるものと推察される。■雲室上人(1753〜1827)雲室上人は、北信濃出身の浄土真宗の僧にして儒者、詩画をよくした江戸の文人である。自叙伝のほか谷文晁、亀田鵬斎ら親交の厚い文人たちの動向を記述した『雲室随筆』は、化政期の文人社会を窺う資料として知られている。雲室が興した小不朽社は、漢詩人には画が、画家には詩文がそれぞれ必要との理念に基づき結成された詩画兼修の勉強会であった(注15)。信州中野から江戸へ戻った直後の柏木如亭がこの小不朽社に参加した理由も、如亭の絵画習得への熱意の現れと理解できよう。そして誰よりもこの小不朽社を通して絵画習得をめざしたのは、雲室自身であったと考える。雲室の著した画譜『宋詩画伝』(序文は鵬斎)や『山水徴』の刊行、そして年紀のある絵画作品は、いずれも結社より10年以上後にあたる文化年間の後半から登場しはじめている。2.七絃琴先述のように松斎たちの七絃琴の嗜みは、むしろ江戸の文人や高禄の武士たちを驚かした。しかし、須坂藩家老の駒沢清泉が、隣接する天領の豪農や医師であった山田松斎や山岸蘭腸に、なぜ琴学を指導したのかは今のところ不明である。『宝善堂記行』には、鍬形A斎も松斎の琴に関心を寄せていたことが記されている。また近隣の高禄武士として、後に松代藩家老となる鎌原桐山の日記には、松代を訪れた蘭腸の琴を聞くため、桐山が蘭腸のもとを訪れた記事が遺されている(注16)。○補遺 浦上玉堂と矢嶋左京正郷信州の琴に関する記事について、諏訪の事例が確認できたので補遺として報告する。寛政8年(1796)、琴士としても名高い浦上玉堂が、諏訪の社家矢嶋正郷に自製の琴を贈った事が玉堂研究に記されてきたが、今回長らく不明であったこの玉堂琴と玉堂
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