1920、30年代の日本における女性美術家グループの活動と展開―461―研 究 者:千葉大学大学院 社会文化科学研究科 博士課程 吉 良 智 子1 はじめに従来、美術においては、一般に女性は、天才的な男性制作者の扱う「モデル」あるいは「霊感源」と捉えられ、能動的な作り手とは見做されない傾向があった。しかし実際には、美術教育制度における男女間の不均衡は存在したものの、さまざまな美術領域において、女性の作り手は、時には互いに連携をはかりながら、活動を続けていた。特に1920、30年代は、春陽会(1922)、国画会(1928)、独立美術協会(1930)、新制作派協会(1936)など、官展とは一線を画した在野の美術団体が相次いで創立された時代であるとともに、女性美術家らによるグループの結成や活動もさかんに行なわれた時期でもあった。だが、それらのグループに関する研究は、現在においてはごくわずかであり、各々のグループの名称や数量、展覧会期およびその回数などの基礎的データも整っていない。以上のような状況をふまえ、本研究では、結成された女性美術家グループの名称および数量、開催された展覧会データを各種雑誌、年鑑等を調査し、年表にまとめた。調査過程におけるデータのため、未見の事項や各団体の詳細が不明なものも多く残されたが、中間報告として本論文を提出したい。以下、それらのデータをもとにいくつかのグループに関して「女性美術家の連帯」という視点から概観する。また、諸グループに対する批評を取り上げながら、男性中心の当時の美術界において、「女流」がいかなる観点から評価されたのか、また女性だけのグループ活動にどのような意義があったのかを、時代が戦時体制へと収斂されていく局面から考察したい。2 戦前における各美術団体における「女流」の位相と女性美術家グループ(注1)新しい時代の美術のあり方を模索した、前述の各美術団体は、その組織の構成として、「会員・会友・一般出品者」のヒエラルキー階層を有していた。一般出品者は入選回数を重ねることによって、無鑑査出品の特権を持つ会員に上り詰めることを目標とするが、戦前の女性美術家の場合、長く入選を積み重ねても多くが会友どまりで会員になれる者はほとんどいなかった。つまり、女性はその実力の如何にかかわらず、ジェンダーによってあらかじめ制度の枠外に位置づけられていたのである(注2)。このような状況は、女性美術家らが自分たちだけの展覧会を開催する動きを促したと
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