―462―いえる(注3)。実際、年表上からも各美術団体の後を追うように、女性美術家グループ群が次々結成され、それに少し遅れて1935年前後から女性美術家の個展数も急激に増加している。主な女性美術家グループのなかで、最も早い例は1918年創立の朱葉会だと思われる。女性洋画家の団体である朱葉会は創立委員として、小寺菊子、津田敏子、与謝野晶子、津軽照子、小笠原貞子、尚百子ら華族夫人や女性文化人および画家らが立ち並び、創立会員としては日高文子、有馬さとえ、亀高文子ら洋画家が参加したものの、当初はサロン的性格を帯びていたグループであった。ほぼ年1回のペースで展覧会を開催し、現在でも活動を継続している。岡田三郎助、満谷国四郎、安井曾太郎、有島生馬ら著名な男性画家らが顧問として作品審査を行ない、当時は必ずしも女性だけの運営ではなかった。第2回展以降はその後の朱葉会を支える中心人物となった吉田ふじをも参加している(注4)。一方日本画においても、女性画家らによる独自のグループが次々と結成された。早い例としては、1920年創立の月耀会が挙げられる。栗原玉葉を中心に石川丹麗、大久保鏡湖、長山はく、野原慶子(後に柿内青葉も参加)らが立ち上げた月耀会は、女性画家自身が自らの主体性により自発的に起こした会であるという(注5)。また、朱葉会のように著名な男性画家が関わった例としては、1925年創立の日本画グループ翠紅会がある。翠紅会は、福寄美和子氏によれば、女性画家が自発的に結成したというよりは、他者からの働きかけによって生れた(注6)。実業界の有力者星野錫と美術史家藤懸静也がそれぞれ会長と顧問を務めた同会は、柿内青葉、江崎照、尾形奈美など、さまざまな画塾の女性が参加した(注7)。再度洋画に目を転じると、1934年には、独立美術協会に出品している女性画家によって女艸会が立ち上げられた。主な参加者には、三岸節子、大内のぶ子、荒井(織田)彩子、桜井浜江、鈴木昌枝、峰村リツ子、佐川敏子、小川マリ子などがいる。その展覧会回数は、1934年の第1回展から1938年の第6回展までの全6回と考えられていたが、近年の研究により1939年第7回展が開催されたことが判明している(注8)。特に、1938年の第6回展には、長谷川春子、藤川栄子、佐伯米子、島あふひ、寺田栄枝、仲田菊代、深沢紅子、森田元子、小田晴子など他団体所属者が特別参加した。各々の立場を超えたところでの連帯が求められた結果だろうと思われる。そのような意味においては、1936年結成の七彩会も、長谷川春子、三岸節子、藤川栄子、島あふひ、佐伯米子、橋本はな子、遠山陽子ら所属を異にする女性が参加した7人だけのグループであり、東京、名古屋、大阪の各地で展覧会を行なっている。島
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