―463―あふひが七彩会の創設に関して、「前々からお互いに励まし合ひ乍ら、勉強して行く女性の集りがほしい物とは話し合つたこともありました(中略)。元来、女の仕事には、支障が多くて、ほんとに男の方々の思ひも及ばぬ、棘の道でございます。ですが相当の覚悟を要することは、各自よく承知として居りますし、今迄にも、多少の経験を、もち合はせて居ります」(注9)と語るように、日本画の月耀会と同様、七彩会は女性画家同士の連帯の場となっている。こうした連帯の気運は、女子美術学校を卒業して間もない若い美術家らにも共有されていた。1930年代を中心に同窓生を主体とした各種小グループが相次いで誕生している。一例を挙げれば、1930、31年度洋画部卒業生によって構成された素顔社は、七洋会(1932年卒)と合同展(素顔社七洋会合同展、1936年6月)も行なうなど、活発な活動を展開した(注10)。しかしながら、こうして培われた「女性の連帯」は、時代が戦時体制へと急激に変化するなかで、そのまま「戦時協力」へと回収される可能性をはらんでいた。1942年結成の洋画団体である女流画家報国会は、藤川栄子、三岸節子、長谷川春子、島あふひ、森田元子、橋本はな子を中心に、東京、京都、大阪の女性画家約100名を動員して1人1点の作品を海軍省に献納した(注11)。女流画家報国会は、主要メンバーや活動内容から、翌1943年2月結成された女流美術家奉公隊の前身であるといってもよい。洋画家を中心に日本画家、彫刻家、工芸家を集めた戦時下の女性美術家団体である女流美術家奉公隊は、1943、44年に各1回ずつ陸軍省の少年兵募集に関連した少年兵展を全国展開し、1944年3月には油彩共同制作《大東亜戦皇国婦女皆働之図》完成させ、同年3月の陸軍美術展覧会に出品するなどの活動を実行した(注12)。1920、30年代は、多数の女性美術家グループが組織されたが、その形態は男性画家が務めた顧問が参与している団体、特定の美術団体あるいは学校組織に所属する女性で構成されたグループ、所属団体を超えた女性のグループなど、多種多様であった。その熱気や培われた連帯は、女性同士の相互協力への高まりであると同時に、女性美術家を戦時体制へと収斂していく装置ともなりえたのである。3 女性グループ展への批評・評価女性美術家グループの数や展覧会回数が増えるにつれ、「女流」に対する社会的関心も高まりをみせた。美術雑誌『塔影』(第12巻第3号、1936年3月)では「古今閨秀画人特集」が組まれ、第19回展二科展(1932年9月)には「女流室」が登場した。より直接的には、各種美術雑誌において女性のグループ展に対する評論が多く掲載さ
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