―465―る反省をもとめた植村鷹千代の「『女流作家』と云ふ言葉に就て―女艸会展を機会に―」という小論などである。以下長文となるが、植村の議論は次のようなものである。『女流作家』といふ言葉の詮議をすることは、馬鹿げたことのやうで決して馬鹿げてはゐない。その所似の一端に触れやうとするのが本文の主旨である(中略)。日本の画壇に於て『女流作家』といふ言葉が使はれる場合には、決してフランス語の女性冠詞のやうな、又辞典に親切でただ善良な国語学者が解説をほどこしたやうな、悪意も善意もない、単なる性別形容詞としての役割を果たしてゐるだけではない。もつと実体的な意味を持つ言葉として使はれる。それは封建的な社会的意味を実体的観念として有つてゐる。(中略)女の作品といふものは、どうせお嬢さん稽古だから厳格に批判しては可愛想だ。ものを云ふ場合には少し割引して云はなければならないといふ気持は厳格に云ふと甚だしく封建的な文化史観に裏打ちされたものである。(中略)しかし現代は、衆知のやうに、文化の領域に於ては男女の問題は、特に民主主義の線上にある筈である。文化的才能の評価、作品価値の評価は男女の別なく、厳格に技術の尺度に照らして行なはれてゐる筈である。(中略)製作の結果に於て、数量的に云つて女性作家が男性作家に劣るといふことは、又別の問題である。それには生活の他の方面の条件の悪さや教育制度の影響による才能の不足もあらう。しかし、意識に於ては生活上の悪条件があるだけに却て男性作家にも増して、この問題に対しては烈々たる闘志があるべきではなからうか(注17)。植村の議論は、同時代の女性美術家を取り巻く教育制度や評価に関する諸問題を捉え、「女流」の枠組とそれに付随する意味を問い直したものだった。1920年代前後の女性美術家グループ群の出現を受け、1930年代末には同群に関するさまざまな評価が出揃った。だが、1940年代に入ると、女性美術家グループや個展に対する個別のごく短い展評は見出すことができるが、植村のような女性美術家そのものに関する発言は、ほとんど見られなくなる。もちろんひとつには七彩会や女艸会などの団体が解散したことにも起因するだろう。もうひとつの原因は、おそらく戦時体制下における美術雑誌統制による影響もあるのではないだろうか。おもな批評が掲載されたのは美術雑誌であるが、1941年7月の第一次美術雑誌統合においては、現代美術雑誌38誌が8誌へ、1944年10月の第二次美術雑誌統合では、8誌が2誌へと批評を載せる媒体の減少とともに、美術界全体の論評はもちろん、女性美術家に対する論評も衰退したと考えられ
元のページ ../index.html#474