―466―る。さらなる議論の進展をみる可能性のあった「女流」問題は、継続されることのないまま、打ち切られてしまったのである。4 おわりに多様な論議を引き出した女性美術家によるグループ群での活動は、互いの研鑽の場や発表機会の充実以外にも、当の女性美術家にさまざまな影響を残した。七彩会、女艸会に参加した三岸節子は、「一人では何事もなし得ない。全部の女流画家の力の結束を得て、初めて新しい世紀を創ることが可能であることを知つてきたのでありました」と当時を振り返る(注18)。青柿社に参加した日本画家谷口富美枝は、「女の思ひあがつた姿くらい醜悪なものはない」(注19)をいう批評が不思議ではなかった環境のなかで、「私達、新しい社会に育ち、世紀の娘の自信を持つ者はもう昔の女達の様に盲従やあきらめの処世観を知らない。押えつけられた過去の反動で今の若い娘達がどんなに思ひ上つて居ようとも弁護したい。私もその類に違いなくて悩んで居る一人であるからだ」(注20)と後進への配慮を見せていたことが伺える。また美術評論の範疇でも男性の執筆者が多いなかで、アナーキスト系の活動家だった堀江かど江は第二回新文展の批評中で、「わたしは毎年女性作家の顔ぶれや作家の数を見渡していつも思ふことであるが、どうも女性作家の芸術修行の道は男性作家に比べてはるかに多難な道を辿るのでかういふ点では制作上都合のいい環境に恵まれたものがその製作をつづけてゆけるといふことになるので、ここに女性作家の困難があるので、女性の立場から淋しさを感じないわけにはゆかない」と明確に女性をとりまく社会的環境に関して言及している(注21)。1920、30年代に結成された多数多様な女性美術家グループは、女性美術家個々のつながりを深める役割を果たしたといえる。だが、その結束が女性美術家を戦時体制へと収斂していく装置ともなりえたでのもまた事実であった。1940年代の主なる女性美術家グループの解散と美術雑誌統制は、美術界においてようやく議論の俎上に上がった「女流」問題を無効にしてしまった。戦後、朱葉会を除く他のグループは消滅し、1947年洋画家を中心に「女流画家協会」が創立された。しかし、それ以降、女性美術家らが「女性」ゆえに団結した例は、ごくまれだという(注22)。敗戦後の制度改革は、女性に教育上の平等をもたらしたが、果たして「女流」問題は、解決されたといえるのだろうか。一体何が変化し、何が変わっていないのか、再度問い直す必要があるのではなかろうか。
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