注各美術団体における女性美術家の位置を含む、戦前の女性美術家をめぐる社会的および制度的環境に関しては、小勝禮子「近代日本における女性画家をめぐる制度―戦前・戦後の洋画家を中心に」(展覧会カタログ『奔る女たち 女性画家の戦前・戦後』栃木県立美術館、2001年)に詳細に論じられている。すなわち、1887年創立の官立唯一の美術教育機関であった東京美術学校(現東京藝術大学)は戦後になるまで女子は入学できず、1900年創立の女子美術学校(現女子美術大学)がほとんど唯一の女子への総合的美術教育機関であったこと、その他各種女子高等師範学校でも美術教育を受けることはできたが、女子美術学校を含むこれらの機関では主に教員養成や情操教育を目的としており、カリキュラムもおのずと限定された内容であったであろうことが考察されている。 小勝前掲論文、14−16頁。■小勝前掲論文、16頁。■朱葉会に関しては、吉田ふじを『朱葉の記 夫・博と絵と旅と』太陽出版、1978年『第70回記念朱葉会小史』朱葉会、1990年、『第80回記念朱葉会小史 追補』朱葉会、2000年、吉田千鶴子「朱葉会―永遠の名誉会長吉田ふじを」『女性画家の全貌。―疾走する美のアスリートたち』美術年鑑社、2003年などがある。■福寄美和子「〈柿内青葉〉に関する調査報告(下)」『女子美術大学芸術学科紀要』2、2002年、16頁。また、福寄氏は『女学世界』(第20巻第4号、1920年4月)掲載の月耀会結成の主旨を紹介している。その主旨を一読すると、それまで各々がさらなる研鑽の必要性を感じ苦悩していたが、互いに同様の問題を抱えていたことが判明し、協力し合いながら学ぶ場として月耀会が立ち上げられたことが分かる(同論文、24頁)。月耀会の活動の全貌は定かではないが、今回の調査においても欠落はあるものの、第1回展(1920)、第2回展(1921)、第3回展(1922)、第5回展(1926)、第7回展(1937)を確認できた。また、『日本美術年鑑 昭和13年度』(美術研究所編、岩波書店、1938年 復刻版は国書刊行会より1996年)までの「美術団体」一覧においても、月耀会の名が掲載されているため、少なくとも前年度の1937年くらいまでは何らかの形で会が存続していた可能性が高い。また、月耀会以前の女性美術家関連展覧会として、紀淑雄が関わった国香会女子部がある。同会に関しては沓沢耕介「紀淑雄の美術家養成活動」(『早稲田大学會津八一記念博物館 研究紀要』第5号、2004年)に詳しく論じられている。■福寄前掲論文、16−18頁。■翠紅会の活動歴もいまだ全体像がつかめていないが、現在までの調査のところ、少なくとも1940年に行なわれた第15回展まで開催されたことが確認できる。朱葉会を除き短命に終わる団体が多いなかで、比較的長期間続いた会だったといえる。なお会員数は、『日本美術年鑑 昭和2年度』(朝日新聞社編、朝日新聞社、1926年 復刻版は国書刊行会より1996年)によれば、16名となっている。■杉山章子「独立美術協会の女性画家と女艸会の結成」展覧会カタログ『三岸節子 絵画の自由島あふひ「七彩会の事に就いて」『美之國』第12巻第2号、1936年2月。素顔社には、中谷ミユキ、平田康子などが参加している。その他名称および卒業年などが確認できる団体を列挙しておく。青柿社(1930、31年度日本画部卒、柿内青葉、谷口富美枝参加)、秋香会(1933年度洋画部卒、赤松俊子[丸木俊]参加)、伸草会(1935年度日本画部・洋画部卒)、野生会(1935年度洋画部卒)、彩虹会(1935年度洋画部卒)、麦陽会(1936年度洋画科卒)、―467―を求めて〜独立美術協会と女性画家〜』尾西市三岸節子記念美術館、2004年。
元のページ ../index.html#476