『旬刊美術新報』1942年2月。拙論「『女流美術家奉公隊』と《大東亜戦皇国婦女皆働之図》について」『美術史』第153冊、2002年参照。奉公隊という枠組みの外でも多かれ少なかれ献画などは一般的に行なわれていた。翠紅会は1938年陸軍病院および海軍病院に献画し、朱葉会は1942年の第24回展において陸海軍への献納画が展示されている。富田「翠紅会第十一回展」『阿々土』第11号、1936年3月。浦田三郎「翠紅会と六旺社」『画観』第6巻第6号、1939年6月。他方では、翠紅会の能動的な制作姿勢を評価する展評も見られる。例えば「一記者」との署名のある短文には、「翠紅会は優秀な女流日本画家のグループである。殊に今年の展覧会は屏風の大作が十余点揃つて従来の趣味的な製作態度から一歩突き進んでゐること本格的に自分の持つあるだけの製作力を発揮しやうとしてゐる点が好ましい」(一記者「真剣な芸術態度 翠紅会女流日本画展を観る」『日刊美術通信』1937年2月7日)とむしろ好意的見解を示している。北川民次「女艸会展を見て」『みづゑ』393号、1937年11月。他にも福島繁太郎「七彩会展」植村鷹千代「『女流作家』と云ふ言葉に就て」『アトリヱ』第16巻第2号、1939年2月。 三岸節子「女流画家の歴史」『BBBB』1950年3月。■注に同じ。 谷口富美枝「早春随想」『美術眼』1938年2月。世代間におけるこのような扶助は、戦前に女子画学生かもしくは駆け出しの画家だった方々に筆者が聞き取りを行なったなかでも見受けられる。1940年に女子美術専門学校洋画部を卒業した石村五十子氏は、青芽会(1937年度洋画部卒)に在学中に友人らとともに出品した経験があると語ってくれた。当時在学中に作品を出品することは「生意気」だという風潮があったが、同校の先輩にあたる赤松俊子(丸木俊)から、「自分が責任をとるから(安心して出品しなさい)」という励ましを受けたという(2003年10月24日インタヴュー)。■堀江かど江「婦人作品について」『画観』1938年12月。堀江は劇作家長谷川時雨が主宰した女性文芸誌『女人芸術』(創刊1928年7月)における初期メンバーでもあった。『女人芸術』は時雨の末妹が洋画家長谷川春子だったことから、表紙絵やカットに、埴原久和代、吉田ふじを、有馬さとえ、亀高文子、深沢紅子、柿内青葉(カットのみ)など数々の女性画家が参加している。女性の作家と画家らは、分野を超えた共同の場を持っていたのである。■光田由里「現代女性画家たちの星座―空虚、影像、触知、批評など」『女性画家たちの全貌。―468―新虹会(1937年度日本画部卒)、萌彩会・蒼生会・青芽会(1937年度洋画部卒)、杉芽会(1937年度西洋画部卒、1938年5月第1回展開催)、美萠会(1939年洋画部卒)、秋紅会(1942年刺繍科卒、1942年10月第1回展)、十二彩会(卒業年不明、1943年に第2回展開催)など。資料は『日本美術年鑑』昭和5−8年、11−19・20・21年(朝日新聞社編、朝日新聞社 昭和11年以降は、美術研究所編、岩波書店)および女子美術大学同窓会史資料委員会編『「JOSHIBI」女子美同窓会の歴史』(2001年)を参照。(『みづゑ』388号、1937年6月)もほぼ同様の論を展開している。―疾走する美のアスリートたち』美術年鑑社、2003年、35頁。
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