鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注山田松斎の研究史については拙稿「山田松斎の交友と文人趣味」『長野県立歴史館研究紀要』 山田正子編『信濃文人の旅―山田松斎―宝善堂記行・参宮紀行―』龍鳳書房,2001年■揖斐高『江戸詩歌論』汲古書院,1998年,733頁、揖斐高『遊人の抒情 柏木如亭』岩波書■鵬斎遊歴の松斎資料は拙稿前掲論文,65頁、および『文人墨客がつどう―19世紀北信濃の―39―詩文(扇面)の所在が確認できた(注17)。「壁上に琴なくんば、人をして卑俗ならしむ」とまで喧伝され、文人の間で流行した琴学は、その稀少性故に長らく忘れられた存在となってしまったといえる(注18)。むすび松斎の盟友であった山岸蘭腸は、晩晴吟社の終焉とともに北信濃で本格的な活動をはじめた小林一茶の門人として活動の場を俳諧へと移す。晩晴吟社や松斎を中心に中野周辺で隆盛をみた文芸活動は、天保7年(1836)、後に葛飾北斎を招く高井鴻山が京・江戸の遊学から帰郷することにより、小布施に求心力を移していく。しかしながら、鴻山が師事した梁川星巌は如亭の親友であり、鴻山とともに活動する根岸雲巣は松斎の旧友であった。松斎らの文芸活動は、北信濃に次世代の文化を育む豊かな土壌を形成してきたと位置づけられよう。山田松斎を手がかりとしながら、山田家をはじめとする素封家の資料調査をもとに都市文化と地方文人のかかわりを追った。そこには文人の遊歴を寛容にもてなしながら、地元での結社活動に参加し、自らも江戸や上方に出向いては情報やモノをやりとりし、自分たちの意見や要望を果敢に都市の文人に問い、求める地方文人の姿がみられた。同時にこうした地方の需要に適応すべく努力する都市の文人たちの姿も垣間みられたのである。松斎たち都市文化の享受層は、街道沿いに相互に連携して情報を共有し、互いに遊歴する文人を案内しあいながら交友を広めていた。但し、彼らはいずれも地方在村における最富裕層であることも承知しておかなければならない。また、こうした富裕層においても、文芸として習得しがたい上に、商品として流通しやすい絵画資料の検証は、容易でないことも改めて認識した。これらの問題点をふまえた上で、引き続き一つ一つの糸を手繰りながらより鮮明な地方と都市の文化活動の実態を求めていきたい。第9号,2003年,63〜65頁を参照。以下、本稿の松斎紀行文に関する記事はすべて同書を参照としている。店,2000年,150頁を参照。文芸ネットワーク―』展図録 長野県立歴史館,2001年参照。

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