鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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金元時代の全真教美術―472―――山西・山東の二石窟をめぐる一試論――研 究 者:大倉集古館 学芸員  田 中 知佐子全真教は金末に起こった革新道教の一派で、現在にいたるまで正一教と並ぶ二大宗派として引き継がれている。開祖は陝西省咸陽近郊出身の道士、王重陽(1112〜70)で、彼の死後は全真の七真とよばれる直弟子、馬丹陽、譚長真、劉長生、丘処機(長春)、王玉陽、ã広寧、孫不二らの活躍により、教団が金朝や元朝の庇護を受けて隆盛を極めた。現在、華北にはいくつかの初期全真教に関係の深い宮観があり、内部の彫刻や壁画の多くが当初のままの姿を止めている。具体的には、陝西省の重陽万寿宮、山西省の永楽宮、北京白雲観、そして山東省の寒同山神仙洞と山西省の龍山石窟の二つ石窟などである。本研究はこれら初期全真教関係の宮観について、制作背景や年代区分、尊像構成、壁画の内容などの基礎的研究を通して、金末から元初ごろの中国宗教美術の流れの一端に位置づけようとするものである。なお、2003年度にはメトロポリタン東洋美術研究センタ―からも研究助成を受けている。本稿では、その中間報告として寒同山神仙洞と龍山石窟を取り上げ、初期全真教と石窟という特殊な礼拝空間をめぐる美術史上の幾つかの問題を考察する。寒同山神仙洞と龍山石窟は13世紀前半の同時期に相次いで開鑿され、どちらも内部には当時の作と考えられる石造神像群が現存する。これらの造営の中心となったとされるのは、全真教道士の宋徳方(披雲・1183〜1247)で、初め七真の劉長生に入門した後、同じく七真の丘処機の許で修行し、後に道蔵の編纂に関わるなど全真教の発展期に指導的な役割を果たした人物の一人である。ただし、特に寒同山神仙洞についてを重修したとの内容の碑文などが複数残されている(注2)。はじめに、寒同山神仙洞について概観してゆく。この石窟は、現在の山東省莱州市近郊に位置する。ここ山東半島の北部一帯は、故郷陝西を出た開祖王重陽の教えが最初に受け入れられ、全真教が教団としての組織作りを確立させた地域にあたる。特に莱州は、劉長生や宋徳方の出身地で、丘処機もしばらく逗留するなど、初期全真教に特にゆかりのある土地でもある。神仙洞には内部に像が現存する窟が6窟あり、山の上層に4窟、下層に2窟という配置になっている〔図1〕。上層の4窟は東側から順らいしゅう神山に9洞を開いたとする碑文伝える文献上の記述は極めて少なく、宋徳方が莱州が伝わるのみである(注1)。一方、龍山石窟は1234年(甲午)に宋徳方が太原の西山に遊んだ際、古昊観遺址に道家の像を安置した二つの洞穴を見つけ、この地に石窟

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