―474―『山西通志』では虚皇龕とよばれる(注5)。張明遠氏はこの窟に虚皇十天があらわさ立像2G、中央に侍者の立像1Gが配されている。奥壁の三尊では向かって右側の像のみ頭部が残存し、蓮華宝冠を被り、白い顎髭を備えている。坐勢や服装は第1窟とほぼ同様で、壇上に長く裳裾を広げている。右壁では入口寄りの椅坐の2神像と侍者、左壁では中央の椅坐像のみ頭部が残る。神像は高冠を被り、顎髭を備えている。服装は他とほぼ同様であるが、椅坐像と立像は浮彫で文様を施した沓を履いている。侍者は低い冠を被り、筒袖で腰の辺りに雲のような装飾のある袍を着る。また手前側の立像は両肩に袖無しのマントのような上衣を掛けている。すべての像に浮彫で頭光があらわされている〔図6〕。また、最下層の第3窟には、奥壁の壇上に左側を下にして横臥する神像(あるいは道士の像)がある。頭に帽子を被り、その下には枕があらわされている。壇の外側左右に脇侍がそれぞれ一Gずつ立ち、いずれも粗末な道袍を着けている。向かって右の像は頭部が全損、左は半損している〔図7〕。続いて、第4窟では奥側の四角い台坐上に坐す神像を中心に左右に脇侍の神像が立つ。中尊は両手首から先を欠するが、右腕を屈し、左腕は垂下する。服装は他に準じており、台坐に裳裾を掛けている。背面の壁に線刻などで簡単な光背があらわされる。右脇侍は合掌し、頭部を欠し、左脇侍は頭部をわずかに残すが両手を欠損している。第5窟の尊像の配置と服装は第4窟とほぼ同様であるが、中尊は禅定印を結び、両脇侍は胸前で両手を組み合わせ、右脇侍は頭部が半壊している。第6窟は奥壁壇上の須弥坐に両腕を屈し手首から先を胸前で袖中に入れた神像(あるいは道士像)が坐し、左右壁にやはり両手を袖中に入れた脇侍の立像がある。服装は他の神像と同じ。左壁奥側には半ば開かれた門扉が浮き彫りされ、帽子を被り筒袖の袍を着た人物が半身を覗かせている。窟頂には双鳳と飛雲が彫り出されている。また、この窟には宋徳方の自賛を記した刻文が残り、戊戌(1238)の年記がある〔図8〕。第7窟には前室があり、入り口の左右に高冠を被り、剣を手にした護法神将の浮き彫りが残る。主室は奥壁と左右壁にコの字型に壇がめぐらされ、正面に3G、左右に2Gずつ計7Gの神像が坐し、向かって右手前の壇外側に神仙の立像が1G残る。神像の服装は他と同様で、壇には7Gの坐像すべてに裳掛坐があらわされ、立像の胸前で合わせた袖上方にわずかに尺の残欠があらわされる。頭部はすべて欠失している。手前壁の左右上方に仙鶴、窟頂に雲龍の浮き彫りがある。残る第8窟には、壇と神像の残骸のみが残る(注4)。以上、寒同山、龍山の二つの石窟について簡介して来た。次にそれぞれの尊名やその他図像の問題について比較的研究の進んでいる龍山石窟を中心に考察を進めてゆきたい。龍山石窟のシンボルともいえる三層楼閣の最上層にあたる第1窟は、明代の
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