鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―475―れたとみて、中央の神像を虚皇天尊と推測している。これは、第2窟が同じく『山西通志』で三清龕とよばれることから、『道蔵』にある「三才定位図」中の“三清之天、上有虚皇十天”の記述にも合致するとして、取り敢えず妥当かとも思われる。ただし、寒同山神仙洞では虚皇洞と三清洞は上下ではなく横並びの配置となっており、必ずしもその限りではない。また、第2窟の主尊である三尊は元始天尊・太上道君・太上老君である可能性があり、全真教における三清(すなわち、王清・上清・太清)との関係性など、判然としない部分が多い。第1窟の中尊については後にもう一度触れるが、第2窟の三尊の問題も含めて、更なる検討を要する(注6)。続いて、第3窟であるが、この奥壁壇上の横臥像が誰をあらわしたものかという問題については、これまでに諸説ある。常盤大定・関野貞両氏は、この像が一見して仏涅槃を彷彿とさせることから、道教の祖である老子像ではないかと推察している(注7)。また、張明遠氏は以前『山西通志』が伝える通りこれを宋徳方像としたが(注8)、最近の研究では王重陽像と見方を変えたようである。とはいえ、この像の図像の源泉が仏涅槃像であるのはほぼ間違いなく、上方に天上の神界を再現するような窟が重層的に配されていることを考えれば、恐らく羽化昇天の瞬間をあらわしたものであろうことは容易に想定されよう。さて、先にも述べたように、寒同山神仙洞にも長生洞とよばれる窟にこれと近似する横臥像が彫り出されている。長生といえば、まず宋徳方の最初の師にあたる劉長生の名が思い浮ぶ。劉長生は逝去の際に左肱を枕にしていたといわれ、宋徳方がそれに際して鮮烈な印象を受け、師の昇天を祀る窟を造った可能性はある。ところが、宋が生涯で師としてより直接的に関わった丘処機は、臨終に際して端坐していたと伝えられ、この場合何故丘ではなく劉の像だけが残されたのか疑問が残る。ところで、全真教の教説は、特に宋代の禅宗から思想的に多大な影響を受けており、自己自身に相見するところを根本儀とするとともに、様々な修行の末に到達したそのような境地がまさに「長生」とよばれている。やはり七真の高弟にあたる馬丹陽と譚長真が、逝去の際頭を東にして南を向き左肱を枕にしていたと伝わることからも、この横臥像は、特定の個人をあらわしたものではなく、全真道士が目指す宗教上の理想の体現としての「長生」像であったとみるべきかもしれない(注9)。さて、第4、5窟については後に述べることにし、第6、7窟について先に述べることにする。まず、第6窟には宋徳方の自賛が刻されているために、中尊は彼をあらわしたものとして、諸氏の見解も一致する。また、この窟のみ窟頂の浮き彫りが双鳳であることは、この時宋徳方が未だ存命中であったことから、昇天の象徴としての龍の図像を意識的にとの差別化を図ったがためだろう。更に興味深いのは向かって左側の壁に浮き彫りにされた

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