鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―476―半ば開かれた門闕で、この図像が漢代以来、天門を意味するものとして墓室や墓棺に繰り返し現れることは周知の通りである。このような半開きの門扉から半身を覗かせる人物をあらわす図像は、宋代以降の墓室壁画などにも比較的よくみられるものである。ここでこの図像の意味するものとは、俗世にあれども、時至れば何時でも化すことができるという、宋徳方の強い自負の表れであったのではなかろうか。次の第7窟は、主室の入り口上部に「玄門列祖洞」の刻字を有することから、奥壁および左右壁の壇上に造られた7Gの坐像が、七真をあらわしたものとみてまず異論はないだろう。ただし、初期全真教においては七真に開祖の王重陽を加え、孫不二をはずす場合がある。現在、神像はすべて頭部を欠しているので、どちらをあらわした像なのかにわかには判じがたいが、幸い常磐・関野両氏が1920年代に撮影した写真に、この内の5Gが完全な形を伝えている。その中で向かって左側の壇上手前に坐す像が、華冠らしいものを被った女性的な姿に造られており、この像がおそらく七真の内唯一の女性である孫不二をあらわしたものと知れる。残る6人がどの像に当たるのかを比定するのは難しいが、少なくとも正面の3尊は、単純に七真の中で一番の高弟にあたる馬丹陽と、宋徳方の師匠であった劉長生、丘処機としてよいではないか。とはいえ、残る三人の問題を含めて、これについては更なる考察を要する。最後に第4、5窟であるが、先に述べたように、宋徳方が龍山石窟を再興した際、この地にはすでに「道家の像」を有する2洞があったと伝えられている。張明遠氏はこれがこの2つの窟にあたるとし、中の造像を唐代の作とする見解を示している。確かに、この2窟の造像は他の窟のものに比べて身体の造りが薄く、紐や掛裳、袖の処理や、立像のやや腰をくねらせる姿勢などに差異があり、全体の造りもやや線の細いものになっている。とはいえ、これらの像の造像様式が、近接する天龍山石窟に残る唐代の仏教造像に近いとは言い難く、この2洞が元時代以前に掘り出されていた可能性はあるにせよ、むしろより後代の作ではないかとの印象さえ受ける。龍山は明の正徳年間に重修を受けたようであり、あるいはその頃に造られた像かもしれず、他にこの年代の石造神像があれば比較してみる必要があろう。以上、龍山石窟のそれぞれの像の尊名について主に考えてきたが、ここで極めて重要な問題が浮き彫りになってくる。すなわち、龍山石窟の開鑿当時の造像と考えられる尊像の中に、開祖の王重陽にはっきり同定できる像を見出すことができないのである。というのも、全真教では祖師の存在を重んじ、その傾向は比較的早い時期から造像の方面にも及んでいた。例えば、寒同山石窟にもみられるような五祖洞や五祖殿といった場所には、老子に連なる道の正当性を高める為に定められたといわれる全真教

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