―477―の四人の祖師、東華帝君、鍾離権、呂純陽(洞賓)、劉海蟾と王重陽の五祖の像が安置されている。また、丘処機が金の世祖に召された際、住まわせられた庵に、呂純陽、王重陽、馬丹陽の三師の塑像を造らせたという記録も残る(注10)。こうした事例からも、龍山石窟に王重陽像が造られなかったとは容易には考え難い。ところで、寒同山では虚皇洞は王重陽を祀ると言い伝えられており(注11)、龍山石窟では第1窟が同じく虚皇龕の名で伝承されている点が注目される。龍山第1窟の中尊が果して王重陽像であれば極めて興味深いが、現段階では全くの推論に過ぎず、ひとつの可能性として提示するに止める。結びに代えて、宋徳方が仏教でも宋元以降は決して盛んではなかった石窟の造営に、敢えて乗り出した政治的・思想的な背景について述べてみたい。金末から元初は、打ち続く戦乱から国土は荒廃し、人心が乱れ、華北では全真教をはじめ、太一教、真大道教といった革新的な道教の諸派が次々台頭し、江南では伝統的な天師道(正一教)が依然勢力を保つなど、道教史上でもまれにみる程多彩な時代であった。この難しい時局を乗り切るため、全真教も他教団同様、時の権力者である金朝や元朝の皇室との結びつきを強め、その政治的な後盾を得ることに努めた。そうした中で、特に七真の一人丘処機は、晩年に「長春真人の西遊」として名高いチンギス・ハ―ンとの謁見で大きな成功を収め、皇帝の庇護の下、戦乱で焼失した道蔵編纂の許可を得た。その後を継いだ尹志平の命で、この大事業の中心的な役割を果たすことになったのが宋徳方であった(注12)。このような情勢下での寒同山、龍山両石窟の造営は、当然背景にある元朝との親密な関係を抜きにしては考えられない。とはいえ、両石窟と皇帝権力の直接的な関わりを伝える具体的な記録が管見の限り見あたらず、恐らくその造営は国家レベルというような大規模なものではなかったように思われる。従って、開鑿の目的も、全真教の教勢を誇示する意図が皆無ではなかったにせよ、むしろ宋徳方自身の個人的かつ内的な動機が多分に反映されていたと推察される。初期の全真教では、あくまでも自らが修行の末に得道することを至上の目標としており、事実、開祖王重陽ならびに七真全員が最終的にいわゆる長生の域にまで達している。宋徳方は、自身教団の最高幹部にまで登り詰め、道蔵編纂などの一大事業でも成功を収めながら、やはり一人の全真道士として、自ら道を得することが常に最大の関心事であり続けたことは想像に難くない。全真教の教理の大きな特徴のひとつとして儒仏道の三教同源があり、先にも触れたように特に仏教、とりわけ宋代の禅宗との関係性が密接であった。その修行は大きく真功と真行とに分けられ、真功とは仏教でいう自利、すなわち俗縁を断ち、雑念を払う内修に当たるといわれ、その最も普遍的な修行が打坐(坐禅)で
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