注『終南山祖庭仙真内伝』(李道謙編、道蔵第604冊)巻下、披雲真人。 「玄都至道披雲真人宋天師祠堂碑銘並引」(『道家金石略』)ほか。■寒同山神仙洞の現地調査は2004年1月に行った。その際、『中国の道教―その活動と道観の現■龍山石窟の現地調査は2002年9月に行った。龍山石窟については『太原龍山道教石窟芸術研究』(張明遠著、2002年、山西科学技術出版社)に詳しい。また、以下、張氏の所見については特に記さない場合すべて本書によっている。■『山西通志』明李ê修、胡謐纂。■『中国の宗教改革』(窪徳忠著、法蔵館、1967年)参照。また、天師道の三清像については、小林正美「金W斎法に基づく道教造像の形成と展開―四川省綿陽・安岳・大足の摩崖道教造像を中心に―」(『東洋の思想と宗教』第22号、2005年)に詳しい。■『支那文化史蹟』(常磐大定・関野貞著、法蔵館、1937年)。以下、常磐・関野両氏の報告に関■張明遠「龍山石窟考察報告」(『文物』1996年11号)。―478―ある。あるいは宋徳方は、王重陽や丘処機らが洞穴や岩窟で数年にわたってこれを行ったことを理想とし、龍山石窟第6窟の中尊に真功を極める自身の姿を重ねていたのではないか。また、真行とは同じく仏教でいう利他、すなわち社会を救済し、教団の勢力を拡張させる外修に当たるといわれ、その具体例のひとつとして、宮観を建立し、人々を全真教に入信させることが挙げられる。当時としては珍しかった石窟の造営は恐らく、恰好の外修の対象となり得たことだろう(注13)。そして、いわゆる功行両全の道士、すなわち真人や神仙とよばれる得道者のイメ―ジこそが、「長生」像やそれに連なる三層の楼閣、各祖師像など、窟内に構築された様々な視覚的な装置により石窟空間に喚起され、現前されたに相違ない。つまり、寒同山、龍山両石窟の荘厳を構成するプログラムの数々は、宋徳方が具体的に思い描いていたであろう、当時の全真教における修行や礼拝のプロセスを端的に伝えるものとしても注目されるのである。以上、紙幅の都合から触れられなかったことも多いが、龍山石窟と寒同山神仙洞の尊像の名称や図像の問題を中心に簡単に私見を述べてきた。宋元の道教石窟としては、これまでに四川省大足石窟などの天師道関係の造像が一部日本にも紹介されているが、今回とりあげた全真教の2石窟は、内部に仏教関係の造像が一切混在せず、また思想的にも極めて統一された図像構成を持つ点に、他との大きな違いがある。今後に残された課題は多いが、この時代の道教美術の全体像を知る上での足掛かりとなるよう研究を進めてゆきたい。状―』(蜂屋邦夫編著、1995年、汲古書院)を参考にした。してはいずれも本書を参照した。
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