―484―「頭部に綵帶を巻いて後方へ垂らす」「頭を錦で包む」の2種があったという。前者は「男女みな髪を切って項に垂らす」という『晋書』の記述を引いた上で「王のみ髪をあり、出土文書などと一致する実在の王名が記されている。銘文によれば第205窟前壁の入口左側の王〔図1〕は「トッティカ」、右の王〔図2〕は「アナンタバルマー」、第69窟前壁上部の王〔図4〕は「スバルナプシュパ」であり、いずれも6世紀末から7世紀初頭にかけての王であるという(注1)。宝冠を着けるのは第205窟のアナンタバルマー王と第69窟のスバルナプシュパ王である。両者の宝冠は形状が異なっており、前者の冠は全体が扇形で、輪郭と並行して文様帯を配し、前額部中央に三角形の前立が付く〔図6〕。後者の冠は上すぼまりの台形で、剥落のため細部の形状は不明だが上辺には櫛目状の装飾が施されているのが分かる〔図7〕。いずれも下縁部はディアデムすなわち冠帯を巻いて頭部に固定しているが、このディアデムの形状は仏教壁画の菩薩や天人と共通しており興味深い。前髪は描かれず、梳き上げて冠の中に収められているようである。一方、寄進者像として描かれた一般の亀茲人は頭飾を着けず、前髪を中心から左右に振り分けた特徴的な髪型をしている。先述のトッティカ王はじめ多くの国王もこれと同様で、キジル壁画においては国王が冠を着ける例はむしろ稀である。髪を梳き上げて冠を着けた国王は、亀茲国王の中でも異質な存在ということになろう。亀茲王の頭飾および髪型について中国の文献を繙くと、「男女皆翦髮垂項」(『晋書』)「其王頭綵帶、垂之於後。」(『魏書』)「王頭綵帶、垂之於後。」(『隋書』)「男女皆翦髮、垂與項齊、唯王不翦髮。…其王以錦蒙項。」(『舊唐書』)「斷髮巾帽」(『大唐西域記』)などの記述が見出せる。これら文献には宝冠に関する記述がなく、国王の頭飾には中国の六朝から隋頃の風俗、後者は唐代のそれということになるが、『舊唐書』では切らない」としており、当時の国王が一般の国人たちと異なる風俗であったことが特記されている。また『大唐西域記』には「断髪巾帽」とあり『舊唐書』の記述と矛盾する。断髪は一般の亀茲国人の風習、髪を切らず頭に錦を被るのは国王のみの特別な装いと考えるなら、両者の混同はなにやら奇妙である。こうした亀茲国人の風習については松田寿男氏の指摘(注2)が興味深い。6〜7世紀当時の亀茲国は突厥の勢力下にあり、国王が突厥から官職を授けられ、突厥地方官の監視の下で傀儡同然の政権を維持する状態であったが、突厥貴族と亀茲王家の間
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