―485―には婚姻が進められ、突厥支配の強化が図られていったという。つまり亀茲国の王統には二系統が生じていたはずで、一方は従来の亀茲人系王統、他方は突厥の血統を引く王統、これが不規則に交代しながら王位についていたというのである。この指摘を踏まえ、文献の記述を壁画にあてはめるならば、亀茲人一般の習俗である「翦髪垂項」「頭繋綵帯」は寄進者像の一般的な髪型すなわち前髪を左右に振り分けた無冠のものに相当するはずで、国王の「不翦髪」「以錦蒙項」とは、前髪を梳き上げて宝冠を着けた状態を指していることになろう。先の宝冠を改めて観察すれば、アナンタバルマー王の宝冠を飾る文様帯は王がまとう錦袍の文様帯と意匠が共通しており、スバルナプシュパ王の宝冠は上縁がフリル状の装飾であったと解釈できる。これらの宝冠は錦で作られた「錦冠」なのではあるまいか。ならば壁画に見られる2種の亀茲王、すなわち宝冠を着ける王と無冠の王の違いは王統の違いを示すものということになろう。『大唐西域記』のいう「断髪巾帽」は、玄奘と実際に面会した国王が亀茲風の髪形で突厥風の錦冠を戴いていたということにほかならず、この王が亀茲人でありながら突厥の傀儡であったことを匂わせる『西域記』の記述とも符合していよう。玄奘が面会したというこの王は『舊唐書』に見える蘇伐畳(スバルナデーヴァ)王で、第69窟のスバルナプシュパ王はその先代にあたる。突厥風の錦冠を着けたスバルナプシュパ王は突厥系の王と解され、更にその先代とされる第205窟のトッティカ王は亀茲風の断髪である。蘇伐畳の「断髪巾帽」とも併せ、当時の亀茲国に土着系の王統と突厥系の王統が混在していたという状況が如実に反映されていよう。なお『隋書』によれば大業年中(605〜618)には蘇尼咥なる亀茲王が朝貢しているが、松田氏も指摘するように蘇尼咥とは突厥の部族名にほかならず、明らかに突厥系の王である。年代的に見れば先のスバルナプシュパと蘇尼咥は即位年代が近く、両者の間にトッティカ王の即位があったとすれば、その在位は極めて短い(注3)。トッティカ王と同じ第205窟のアナンタバルマー王は他の資料に名が見えず、いわば宙に浮いた状態であるが、この王は錦冠を戴く突厥系の王であるから、或いは蘇尼咥王と同一人物ということも考えられよう。出土文書の王名が必ずしも即位順に全ての王を記したものとは限らないのであるから、亀茲固有の風俗に描かれるトッティカ王が実はアナンタバルマー王の先代である可能性も考慮に値するのではあるまいか。2人の亀茲王が戴く宝冠は文献のいう「以錦蒙項」の風俗に他ならず、それは本来突厥人の風習であった。冠の有無は突厥支配に服した亀茲王室の複雑な様相を表したものということができ、現在記録を欠いた西域史の一断面を示すものといえよう。
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