鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―487―たらしいことが解る。敦煌第275窟や雲崗第18窟〔図13〕に見られる菩薩の宝冠はキジル壁画と同様に円盤を3つ着けた形状であるが、円盤はそれぞれ髻を囲むような形で付けられており、上記の推測を裏付けていよう。ガンダーラのターバン装飾は西域で全く違う構造に解釈され、宝冠として定着していったようである。〔図14〕は第224窟の王侯が着ける宝冠であるが、第2様式の作例には実はこのタイプが最も多い。中央に着けられた円盤の下から左右に放物線を描いて帯状の装飾が立ち上がり、同様の装飾は円盤の後ろからも出ている。具体的に立体としてイメージしにくい形状であるが、第1様式の作例にもこの形式は少なからず見られ、こちらでは帯状の装飾が円盤の中央部からディアデムの両端まで続いている。この宝冠は単純にターバンの形状が写し崩れたものといわれているが、ターバンそのものが失われて骸骨のように布の襞のみが残るというのも考えにくい。参考になるのはミーラン壁画の頭飾〔図15〕で、中央上部に花形の装飾が開き、左右に帯状の半円が付いた形状はまさにキジルのものと同様である。興味深いのは、側頭部で弧を描いた帯が前額部で鉢巻部分の下に潜り、両者が交差している点である。ミーラン壁画では帯状部分が白、帯に囲まれた半円部分が赤で彩色され、この頭飾が宝冠の一種とみなされていたらしいことが分かるが、この頭飾とほぼ同型の頭飾がスワートの浮彫に見出せる〔図16〕。こちらでは半円の帯状に囲まれた地の部分には布の襞が表現されており、これがターバンとして作られていることが分かる。半円を描く帯はターバンを縛る帯なのである。同様の例はスワート地区の彫刻には比較的よく見られ、比較的早い時期にスワート系の粉本が西域南道に伝えられていたことはほぼ確実といってよかろう。スワートでターバンとして作られていたものがミーランでは宝冠と解釈され、ターバンを縛る帯が板状装飾の縁取りに置き換えられてしまったわけである。図像伝播に伴う変遷の様子が生々しく伝わってくる興味深い例といえるが、こうした作例を間に置けばキジルの宝冠は容易に解釈ができよう。キジル壁画の宝冠について検討したが、第2様式を代表する3タイプの宝冠はいずれもガンダーラのターバンが原型で、それぞれ異なる部分が強調されて伝わったものということができる。3つの円盤を持つ第1のタイプはターバン装飾の宝石メダイヨンが肥大化の果てに結び目の花形と同等に扱われたものであり、中間にササン朝などの影響が想定される。二つめのタイプは円盤装飾を中央に一つだけ付けたもので、ターバン装飾が第1様式の壁画で宝冠として解釈された形状を伝えるものとして興味深い。半円形の帯状装飾を持つ3つめのタイプはターバンを縛る帯が形式化して残ったもので、もとはガンダーラのターバンがスワートを経て西域南道に伝えられたものら

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