鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―489―に花形を飾るのは先に見たキジル壁画以来の形式で、中国に至って花形は新たにパルメット文にアレンジされたわけであるが、このパルメットがそのまま連珠円文錦の副文に採用されているのは極めて興味深いことといえよう。西域における「以錦蒙項」の風習は中国で錦の文様制作にも影響を与えていたのである。『隋書』西域伝・于í国の條には「王錦帽、金鼠冠」との記述があり、西域南道・ホータンの于í国では国王が「錦帽」と「金鼠冠」を併用していたという。金鼠冠がいかなる冠なのか判然としないが、冠と明記されている以上それは金を用いた豪華な宝冠であったと考えられる。于í王はおそらく盛装時には宝冠を戴き、平時には錦帽を着けていたのであろう。いわばイミテーションである。突厥風の錦帽が西域で宝冠に見立てられ、そこに連珠文錦が宝冠装飾を模した形で使われていったという流れが見えてこよう。ここで再びキジル壁画の国王を見てみると、第205窟のアナンタバルマー王が戴く錦冠の文様帯が一種の連珠文であることが改めて確認されよう。円盤を付けた天人の宝冠とはイメージが遠いが、錦の文様を実物の連珠に見立てた装飾の意図は明瞭である。第69窟のスバルナプシュパ王が錦冠の中心部を破損しているのは残念というほかないが、おそらくは宝冠装飾を模した巧みな布取りであったろう。頭を布で包むという突厥風の風俗の中に、いかにも西域的な方法で宝冠のイメージが与えられていたのである。結語キジル壁画の国王像から冠のあり方について考察してきた。王者の威厳を演出するのに冠は重要な小道具といえ、亀茲人固有の文化が王冠を持たなかったのは奇妙というほかないが、そこへ外部から頭飾の風習が持ち込まれたとき、同じく外来文化である仏教図像をもとに宝冠のイメージが付加されていったのだとすれば、それは極めて興味深いことである。従来、西域の文化は「橋渡し」として理解され、むしろ軽視される傾向にあった。仏教美術の通史などでも西域美術が大きく扱われることは稀である。しかしながら、宝冠を中心に見た西域美術のあり方はむしろ独創性に富んでおり、外来の図像を自在に読み替え異なるものに作りかえていく旺盛なエネルギーを持っていた。東アジアに伝わった仏教美術はこうしたフィルターを経て伝えられていったものなのである。

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