鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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鎌倉時代金銅仏の鋳造技法に関する調査研究―494―研 究 者:文化庁文化財部美術学芸課 文化財調査官  奥   健 夫はじめに仏像制作がほぼ木彫に限られる平安時代〜鎌倉時代において、金銅仏の造立は決して盛んとはいえないものの連綿と続けられており、そこには山岳信仰や神仏習合とのかかわり、復古性などの特色が指摘される。金銅仏がどのような意識をもって造られていたかを考えることは、当該期の彫刻史全体を論じるうえで意外に重要と思われる。本報告はこの時期の金銅仏の鋳造技法をテーマとして行うが、技術的な細部の検証というよりも、むしろ造られ方から金銅仏のありようについて考えることを目的とするものである。具体的には、木型と鋳造像がともに現存し、しかも原型の顔立ちを変更して鋳造され、原型は元の顔立ちのまま別に仏像として仕上げられるという興味深い事例を取上げて、鋳造原型の問題について検討を加えたい。1.仏師による原型の制作について仏師が鋳造像に携わった記録として、早く平安中期に康尚ついで定朝による銀仏制作がある(注1)が、それ以後は記録上の事例が全く知られない。造像銘記においても、仏師の名がみえるのは、鎌倉時代以前には後で触れるように貞永元年(1232)の奈良県法隆寺金堂阿弥陀如来像ほか二例があるのみで、後代まで含めても、制作者としては鋳師のみが記されることがほとんどである。一方、平安後期以降、金銅仏に木型を原型として造られたかと想像されるものが多いことは、しばしば指摘されるところである。木型による造像を推定する根拠として重視すべきは、各部を分鋳する技法と木彫像の木寄せとの関連であろう。すなわち腕部など入り込んだ面について雌型をとるのに、抜け勾配となるよう型を細かく割る作業の困難を避けるため、これを分鋳して本体に留める工作は同時代の木彫像の構造と通じる(注2)。たとえば腕部を肩口に設けた蟻éで落とし込んで留めるやりかたは、金銅仏で12世紀よりしばしば行われるようになるが、同時期の木彫像ではたとえば大倉集古館普賢菩薩像に用いられており(注3)、これは面が奥に入り込んでいて組み付けた後では手が届かない箇所を、部材を外した状態で表面仕上げまで施すための工作である。また12世紀の制作になる京都府醍醐寺や福井県大谷寺の定印阿弥陀像〔図1・2〕にみられる、右上膊から左手首までを別鋳して袖口に差し込む方式は、木彫では丈六

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