鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―495―像に同様の構造をもつもの(鳥取県大山寺阿弥陀如来像〈天承元年=1131〉など)があるが、これは両足部を仕上がった像を部材を分解した状態で安置場所まで搬送し、現地で組立てるための処置である。構造が共通するという以上に、そもそもこのような分鋳の原型は木彫以外では容易に造り得ないであろう。これらはともに、木彫像が大量生産された院政期における作業の効率化を図るための工夫が金銅仏に援用されたものと捉えられる。その原型は仏師が木彫により制作したとみるのが自然であろう。『阿娑縛抄』百八十の「鋳尊容作法」には金属の選択から鋳師の受戒、鋳造後の供養にいたる儀礼の作法が説明されているが、そこでは原型の制作については何も触れていない。金銅仏を造るというのはあくまで鋳造行為をいい、原型制作はそのための下準備の一つにすぎないということであろう。銘記や記録に仏師名がでてこないのはこの点と関わるかと思われる。仏師のいわば副業に関する史料として、たとえば『山槐記』元暦元年8月22日条にみえる悠紀所・主基所の用いる黄楊の印を彫るのに、近代の内匠寮の工人が皆、銅細工であり彫木が不得手という理由で仏師に彫らせているという話や『兵範記』仁安3年10月29日条の、小忌衣の柄として用いる竜胆小鳥文を絵様に基づき仏師に数種彫らせるという記事、『諸集』所引の「観世音菩薩感応抄」(弁暁)に記す承安元年(1171)頃に仏師快順に尊勝仏頂の種子を板に刻ませたこと(注4)などが挙げられる。このように、木彫像制作以外にも木に彫刻を施す作業が必要となった場合に、仏師のもつ木彫技術がしばしば求められたことがうかがえ、彼らが鋳造像の原型を下請け的な立場で制作していたことは容易に想像できる。それが記録にあらわれないのは、宗教儀礼としてのいわば正規の造仏行為に原型制作が含まれないためであろう(逆にいえば木彫像の制作者として銘記や記録類に仏師の名が出てくる場合、それはまず基本的に宗教儀礼としての造仏を執り行う者としてであったということである)。こうみると南都焼討後の東大寺大仏の再興にあたって、頭部の原型作者が記録にあらわれないのも故なきことではない。それでは鎌倉時代の金銅仏で仏師名が銘記にあらわれる場合の事情はどうであろうか。そうした遺品として挙げられるのは奈良県法隆寺金堂阿弥陀如来像の原型を造った仏師康勝(光背銘)と、米国ボストン美術館の観音菩薩坐像(文永6年・1269)を造った仏師西智(台座銘)の二例で、鉄造も含めれば茨城県中染阿弥陀堂像(弘長4年・1264)の「仏師日向房良覚」(像背銘)がある。法隆寺像では仏師名は「銅工平国友」と、中染阿弥陀堂像では「大大工権守入道西念」とそれぞれ並記される。ボストン美術館像は仏師名のみの記載であり、これは木仏師が造像を請負い、鋳師はその

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