鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―498―を矧ぎ、手首先を袖口に差込み矧ぎとする。両足先はそれぞれ横1材を裙裾に差込み矧ぎ。像底中央に丸é孔を穿って像をé立てする。表面は錆下地漆箔(現状は新補の漆箔がその上を覆う)。同作になる二菩薩像を伴う(注7)。長興寺像(注8)は各部の比例が整った形姿で、細面の顔立ちはやわらかな肉付を施し、頬を引き締めてやや厳しい表情を浮かべる。衣文は深浅の変化をつけ、肉身の起伏に沿って自然な流れをつくっており、正面ではかなり複雑な構成になるがなお写実味を失っていない。これらの点には鎌倉時代中期の慶派系統の仏師の特色がうかがえる。両脇侍像に多用される、衣縁が大きな反転曲線を描く意匠化された処理に13世紀後半になって顕著になる特徴がうかがえることを考慮すれば、制作年代はおよそ1260年代を中心とする頃に置くことができよう。光勝寺像は一見すると長興寺像と全く別の像にみえる。しかし両者は顔立ちほか一部を除けば細部に至るまでその形がほとんど一致する。それはたとえば後頭部の螺髪の不整な配列と大きさ、その中央5〜6列が髪際に沿った1〜4箇を除き旋毛形の刻みを省略するところまで及ぶ〔図11・12〕。はっきりと形の異なる箇所は、頭部の正面地髪を含む面部と両耳、それに正面脛部から両側面地付にかけてである。長興寺像について計測機器を用いた寸法の採取が事情により実現しなかったため、ここで両者の相違点の数値的な比較ができず隔靴掻痒の感を免れないが、面部〔図13・14〕をよく見較べると、意外にも目鼻立ちは基本的に両者同形であり、おそらく頬から顎にかけての肉付けが多少異なり、光勝寺像は頬が張り、また髪際のうねりが強いために丸顔にみえるのだろう。また脛部〜地付は光勝寺像の鋳掛け部にあたり、この部位が異なるせいで光勝寺像のほうが立ち方がやや後倒れになっている。この鋳掛けは主部鋳造時の所為とみて問題ない。寺蔵縁起(江戸時代)には像の手足が破損し阿濃津(津市)に住む越後守なる鋳工によって修理されたことが記されるが、説話的内容の記述であり、両手首先が長興寺像と基本的に一致し(ただし右手は刀印を結ぶ第1指頭が第2指の爪にかぶる点がことなり、また左手は指先が長興寺像のほうがやや長いが、型の細部の調整により生じた差であろう)、また手首先の金属組成が主部と共通することが判明している(注9)ことからも、この記述は事実と認め難い。おそらく足部の鋳掛けをみて考え出されたのであろう。推定されるその鋳造手順は以下の通りである。光勝寺像の中型は前述したように削り中型とみられるので、外型からいったん土製の像を起こしたうえ、その表面を均一に削り落として中型を作り出したと思われる。型持等を設けて中型と外型の位置関係を固定したうえ、溶銅を流し込んで鋳造するのは通行の如くで、湯が回り切らなかっ

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