鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注『権記』長保元年(999)9月25日条・寛弘7年10月4日条、『春記』長久元年(1040)5月 浅井和春氏は「各部を分けて鋳造した後に接合するやり方は当時の寄木造の木彫像と共通する点が多く、割型で雌型を取る際にも寄木の各部材ごとの型取りが予想される」と述べる(「秋田・全良寺所蔵の阿弥陀如来坐像」〈『佛教藝術』257平成13年〉)。■鋳造品で蟻é落とし込みにより接合する工作を用いる早い例として平等院阿弥陀堂棟上鳳凰の尾根部が知られる(田邉三郎助「平安時代」〈『小金銅仏』東京美術 昭和五十四年〉)が、木彫でそれを遡る例として11世紀前半の作とみられる奈良県正覚寺天部像(左腕の袖口を含む前膊半ばが蟻é落とし込みにより接合)があり、鳳凰におけるこの工作も木彫技法の応用とみて不都合はない。■ただしここでの快順の「左京」という肩書は近世に頻出し、鎌倉時代には他に例をみず、この■この事例の存在は広島県教委文化課白井比佐雄氏の教示により知った。―499―た足廻りから中型土を掻き出したのち、この部分をおそらく土型により鋳掛けをして補ったとみられる。頭部の形状修整についてはそれが意図的なものか、それとも外型を取った時にこの部分の転写が甘かった等のことがありそれを整えた結果として原型から形が変わったのか、という点が問題となるが、後者を想定する積極的理由もなく(像容にとって肝要な部位である面部に関することであり、外型を取り直せばよいだけの話である)、ここでは前者とみておく。凹凸反転した外型に直接手を加えるのは調整が難しいであろうから、外型から土製の像を起こした段階でそれに整形を施してもう一度外型を取直したと考えざるをえない。さてここで長興寺像の制作事情について、次の三通りのケースが考えられる。①もともと木彫仏像として造ったものが鋳造原型として二次利用された。②もともと鋳造原型として造られたものが、型取り後も廃棄せずに木彫像として用いられた。③はじめから木彫仏像としての二次利用をも見込んだ鋳造原型として造られた。前述したように、同じように原型が木彫像として別に伝わるほぼ同時期の大型鋳造像が、他に二例挙げられることを考えれば、偶発的な事情による①②よりも③に蓋然性があろう。木彫像は御衣木の採取に始まりその造立が一つの儀礼をなしていることを考えると、②のようなケースは可能性があまりなさそうである。面部の修整が直接原型に施されていないということも②を否定する材料となろう。原型はそのままの造形で木彫像として完成させることが望まれたわけである。2・6・19日条。点より同史料は取扱いにやや注意を要する。

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