-日本戦時体制下の台湾画壇―44―――陳澄波《雨後淡水》(1944)を例に――研 究 者:京都大学大学院 文学研究科 博士後期課程修了 李 淑 珠台湾は下関条約(1895)によって日本の初の植民地となり、日本敗戦(1945)までの約50年間、総督府という日本「外地」機関の統治下に置かれていた。台湾総督府の初期の統治目標は、武力による抗日ゲリラの殲滅と原住民の鎮圧であったが、1919年に文官統治に切り替え、いわゆる「同化政策」が進められた。「同化」(日本人化)は、主に「国語」(日本語)の普及によって図られたが、1927年の台湾美術展覧会(台展)の創設によって、美術もまた社会教育の名目で同化政策の一環となった。例えば台展うに「書」という部門を設けなかったりすることが常に指摘されてきた。植民地政府の扶植によって、台展は帝展を手本にいわゆる台湾画壇を形成し、美術人材の育成に成功した。例えば西洋画家では台陽美術協会(台陽美協)のメンバーである陳澄波、陳清汾、楊佐三郎、李梅樹、李石樵、廖継春や、東洋画家では「台展三少年」と呼ばれた林玉山、陳進、郭雪湖(注1)に加えて、呂鉄州、陳敬輝などの台展開設10年後に日中戦争が勃発。これによって第11回の開催は急遽中止された。台湾は再び武官総督(海軍大将小林躋造)を迎え、戦時体制が敷かれると同時に温和な同化政策が急進的な「皇民化運動」(例えば「改姓名」、名前を日本式に変更させる政策)に転換されたのである。翌1938年、台展は台湾総督府美術展覧会(府展)に改組され、「皇民化運動の一助として……帝国南進政策の基礎確立と共に南方文化の拠点として美術報国の第一線を担当しなければならない」(注3)という開催意義が発表された。そのため、台展時代に見られなかった「時局柄画題」が現れるようになる。ところが、戦後の台湾美術史研究においては、台湾には戦争画はなかったといった論調が根強い。画面に戦闘場面や軍人などといった「戦争」を思わせるものが描かれていないのがその理由のようだ。例えば「事変色を漂はせたもの」(注4)と報道されていた郭雪湖《銃後の護り》〔図1〕や陳清汾《九段坂風景》〔図2〕などは、戦後、「東洋画部」は中国伝統水墨画を意図的に排除したり、朝鮮美術展覧会(鮮展)のよ「第一世代」(注2)が台湾近代美術の先駆者として知られている。とりわけ陳澄波(1895〜1947)は帝展入選した最初の台湾人画家として先駆者の中の先駆者という地位を獲得している。「戦時の内容がなく、戦時の題名をつけただけなのだ」とされている(注5)。
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