―522―[論文要約:北魏仏教美術中の胡服像表現(要約)]「漢」を採る方向が定められると、胡服や胡語の使用は禁じられ、仏教造像をはじめ第3日(最終日)10月10日は、バスで終日慶州の古跡や博物館を見学した。石窟庵、仏国寺、皇龍寺遺址、慶州博物館などを、韓国人研究者の解説を聞きながら見学し、夕食後に散会となった。なお、学会としては、今回の会議の成果を盛り込んだ論文集の出版を来年中に予定しており、報告者も論文を提出するよう指示された。2.報告者本人の研究報告について報告者は第1日午後の第2分科会で、「北魏仏教美術中の胡服像表現」という題名で研究発表を行った。発表は日本語で行い、質疑は韓国語の通訳を介して行われた。ただし、中国語への通訳が用意されなかったため、報告者は中国語の資料を作成し、当日会議で配布した。内容については以下(論文要約)を参照されたい。北魏平城時代(5世紀)の仏像の台座や背面には胡服すなわち北方遊牧民族の服装をした人物像が多数表されている。筒袖の長い上着に、男性はズボン、女性は裙を着け、革製の長靴を履き、肩まで垂れる大きな帽子をかぶっている。これらは北魏を建国した鮮卑族の姿であり、かれらが異文化である仏教を受け入れ実践したことの証ともいえる。また、供養者像ばかりでなく、仏伝図や本生図と言った仏教説話図の中でも、在家信者や世俗の人物を胡服で表現しており、本来は遠いインドで成立した物語が、まるで遊牧民の物語であるかのような錯覚すらおぼえる。平城時代の仏教美術は、鮮卑族を教化する上で、造形の中に胡俗を積極的に採り入れたのである。また、胡服像の表現は仏教美術以外にも認められ、北魏平城時代の墓からは胡服の墓主像、胡服の俑、胡服の東王公や西王母、胡服の孝子図まで発見されている。北魏の人びとは仏教文化も漢文化も胡俗化することで容易に受け入れていったのである。言いかえれば、彼らは自らの胡俗に対して高い誇りと強い愛着を持っていた。こうした「胡」を顕示する風は480年代頃まで存在したと思われる。しかし、第6代孝文帝の治世に祭祀の改革が進められ、風俗の上でも「胡」を捨てとする造形美術の面でも、胡服像にかわって漢服の人物表現が登場した。漢服に着替えた鮮卑族は、姓も改め、やがて中身も漢族化していったのである。洛陽永寧寺遺址から出土した塑像片の中には瀟洒な漢服姿の供養者像が多数発見されたが、そこには鮮卑の面影はまったく見あたらなくなっている。
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