と唯一日本戦時体制下の台湾画壇の動向を考察した黄恵の論考、『戦争与―45―いる(注6)。このような研究状況なので、台湾文芸における戦争協力(「皇民文学」や「皇民劇」)を語る論文集『台湾の「大東亜戦争」―文学・メディア・文化』(2002)に美術への言及が見られないのも当然かもしれない。果たして美術は文学や演劇と違って、皇民化(戦争動員)の嵐から逃れることができたのか、また「題名だけ」と評された作品は本当に聖戦美術の性格を持たなかったのか。本稿では、戦時体制下の台湾画壇における美術報国の動向を把握しながら、具体例を取り上げ検討した上で、台湾における聖戦美術の特色を明らかにし、《雨後淡水》を例にこれまで「祖国愛」の画家と謳われてきた陳澄波も聖戦美術の作例を制作していたことを合わせて指摘したい。さて、日中戦争が起こると、日本画壇では「彩管報国」(彩管=絵具のチューブ)が様々な形で動き始める。新文展では、作品の大きさは50号以内に制限され、時局的な題材が描かれるようになった。二科展は第24回の開催では日中戦争の勃発に合わせ、小品即売室を設置し、売上金を陸海軍省に献納した。翌1938年の開催では「事変室」を設置し、事変関係の作品を並べて話題を呼んだ。そして、陸軍美術協会主催の第一回聖戦美術展は各大都市を巡回する巡回展として1939年7月に開催され、初めての大規模な戦争美術展として注目を浴びた。とりわけ、人々の眼を引きつけたのは、上海軍委嘱の二百号もの大作の作戦記録画だった。一方、台湾画壇にも同じような動きが見られる。府展における時局画題の増加に対し、二科展の動きに呼応したのは、台陽展である。台湾最大の洋画在野展とされる台陽展は、1934年台湾人画家を中心に結成された台陽美協のグループ展である。日中戦争の勃発に応じて、台陽美協は「皇軍慰問台湾作家絵画展」を開催し、翌年の第四回台陽展では「皇軍慰問室」を設置し、作品56点の売上金を陸海軍省に献納した(注7)。また、「台湾聖戦美術展」が1941年に開かれたが、台湾人画家はこれに出品していない。というのは、これは在台日本人画家が結成した洋画団体、創元美術協会(創元美協)(注8)のグループ展だからである。会員の話し合いのもとで各自の好みと画風に合わせた主題の分担が行われ、軍人肖像や戦闘場面といった「前線」の主題が殆どだが(注9)、多くは「写真」を用いたものだと当時から批判の声があった(注美術』(1997)も台湾在住の日本人画家による戦争画を考察した点において極めて重要だが、結局、台湾人画家による聖戦美術の「不在」という従来の見方を強めるものになって
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