鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
55/535

―46―10)。(略)。軍歌か何か……云はゞ一つの苦しみ、もがきから最後は希望、喜びまで結びつ洋画家たちに対抗して、日本画家たちも1942年に「全島の各神社に赤誠の日本画奉納」を計画した。「府展の審査員である木下静涯画伯をはじめ郭雪湖、野村泉月、宮田彌太郎、林玉山、宮内鉄州、中村敬輝、村上無羅、紅一点の長谷川徳和等の無鑑査級に水谷宗弘、林林之助諸氏で……画題、意匠及び大きさに関しては目下督府との間に打合せが進められてゐる。(略)。これら日本画家の日本画奉納は南進島民の国民精神涵養、情操陶冶の上に好感化を与ふるものとして意義深いものがある」という(注11)。このように、台湾画壇も美術報国に励んでいたが、作戦記録画は遂に描かれなかった。そのためか、聖戦美術に対して台湾人画家の反応は「冷淡」であったと指摘される(注12)。しかし作戦記録画は軍の委嘱を受け、戦地に派遣された「大家連」(注13)によるものであり、また「日本帝国においては、軍人は国防の第一線に立つ名誉ある存在であり、日本本国人のみ軍人たりうる資格があるとされた」(注14)ので、当然本島人画家への委嘱はありえなかった。作戦記録画はなかったとはいえ、本島人画家が冷淡であったとは言い切れまい。例えば李石樵には《歌ふ子供達(現、合唱)》〔図3〕という作品があり、「台陽展を中心に戦争と美術を語る」という当時開かれた座談会で、同席の文学者、とりわけ文壇のリーダー格の張文環から「のどかな中に切羽詰つたものが背後にある。(略)。さう云ふやうな直接生活と結びつけるやうな画題を沢山描いてほしい」と大絶賛された(注15)。座談会で李石樵はこう語る。「私は豫々、子供を題材にして何か描こうと……、それを結局今の時局に一本に結びつけて描いたのです……。時局が斯う云ふやうに逼迫しても、私達は喜びと希望をもつことが必要である。(略)。防空壕の前で子供が歌つて居る……防空壕は非常に逼迫したことを意味する。然しその前で子供が歌つて居る。けて来る」。李石樵はかつて美術評論家の呉天賞との対談で、石原紫山《「タルラツク」の避難民(比島作戦従軍記念)》〔図4〕について、「戦争画の後味は、力と希望があつて欲しいものです」と批判していた(注16)。明らかに、李石樵はこの「力と希望」を《歌ふ子供達》において実現したのである。力と希望は「台湾美術奉公会」(注17)の目標でもあった。「創元美協と台陽美協などの知名画家が全て含まれている」(注18)美術奉公会の仕事は、「国民精神の振作や国民情操の涵養のほか、国家と公共の恒例行事に協力し、美術文化の各事業の向上や

元のページ  ../index.html#55

このブックを見る